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誰が坂本龍馬を殺した?龍馬暗殺の実行犯を追い続けた「谷干城(たにたてき)」

誰が坂本龍馬を殺した?龍馬暗殺の実行犯を追い続けた「谷干城(たにたてき)」

画像:近代図鑑2-谷干城の肖像(国立国会図書館)

日本史においても幕末においても謎が解明されないままミステリーとなっている坂本龍馬の暗殺。暗殺犯に関する多数の説が推測されていますが、いまだ断定するには至っていません。

いったい誰が龍馬を殺したのか・・・、その事件を解決するために生涯をかけて龍馬の暗殺犯を追った人物がいました。土佐藩士で、のちに農商務省(農林水産省の原点)の初代大臣になった谷干城(たにたてき)です。

谷干城と坂本龍馬の出会い


画像:幕末明治文化変遷史「土佐藩士の頃の谷干城」(国立国会図書館)

1837年に土佐国(高知県)高岡郡窪川町で生まれた谷干城(たにたてき)は、1859年に江戸へ出て、安井息軒や安積艮斎、若山勿堂など名高い学者から学び、2年後に土佐へと戻ってきます。

1862年から土佐の藩校・致道館で史学助教授を務め、ここで武市半平太と出会いました。武市の影響を受けた谷は尊王攘夷(天皇を敬い鎖国を主張する思想)に傾倒し、高知藩主の山内豊範に引き立てられるようになります。

武市と共に尊王攘夷運動に注力しますが、1864年に武市が失脚すると同年に谷も左遷となり、助教授を退任。1年間の逼塞(刑罰の一種)を経て、再び致道館の史学助教授を務めました。

さて、そんな谷が龍馬と出会ったのは1866年に貿易の視察で長崎を訪れたとき。攘夷の思想を捨てきれないままでしたが、長崎の視察を境に、谷は西洋に対する考え方が変わっていきます。

長崎では多くの西洋人が貿易で入国しており、最新鋭の武器や戦艦(軍艦)などを売買し、これに乗じて貿易を行っていたのが龍馬と出会い、土佐藩の重役であった後藤象二郎とも繋がります。

谷は龍馬や象二郎から「攘夷は非現実的な思想である」と言い聞かせられ、天皇中心の新しい政権を発起するために倒幕こそが日本の未来を切り開く道だと熱く語られるわけですが、このときはまだ半信半疑で納得していませんでした。

そして、龍馬や象二郎に刺激を受けた谷は上海に渡り、まざまざと西洋の軍事力の強さを目の当たりにします。帰国後、攘夷の思想から一転し、倒幕を実現するために動き出すのです。

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