信長公記・11巻その4「安土城の大相撲」
画像:織田信長公相撲観覧図(両国国技館)
安土城の大相撲
1578年9月16日(天正6年8月15日)、信長は近江(滋賀県)と京都の相撲取り1500人あまりを安土城に呼び寄せて相撲大会を催し、辰の刻(午前7時~9時頃)に始まり、酉の刻(17時~19時頃)まで行われた。
また、家臣や旗本の武将らも腕っぷしの強い者を参加させた。行司は木瀬太郎大夫と木瀬蔵春庵が務めた。
相撲大会の仕切り(奉行)を任せられたのは、織田信澄、万見仙千代、堀秀政、青地与右衛門、蒲生氏郷、布施藤九郎、木村源五、村井作右衛門、永田刑部少輔、後藤喜三郎、阿閉貞大であった。
なお、相撲大会は小相撲の五番打と大相撲の三番打※で行われた。参加した主な力士は次のとおりである。
- 小相撲五番打の力士
京極家中、江南源五、木村源五家中、深尾久兵衛、布施藤九郎小者、勘八、堀秀政家中、地蔵坊、後藤家中 麻生三五、蒲生中間、藪下 - 大相撲三番打の力士
木村源五家中、木村伊小介、瓦園家中、綾井二兵衛尉、布施藤九郎家中、山田与兵衛、後藤家中、麻生三五、長光、青地孫次、づかう、東馬二郎、たいとう、円浄寺源七、大塚新八、ひしや
<補足>
小相撲・・・ 相撲取りの弟子、または地位の低い力士
大相撲・・・一人前の力士、または名が知られた力士 ※現代の大相撲の意味合いとは異なる。当時は「武家相撲」という 五番打・・・一人の力士が5人抜きする取組(勝ち抜き戦) 三番打・・・一人の力士が3人抜きする取組(勝ち抜き戦) |
相撲大会が終わった頃、すっかり辺りは薄暗くなっていた。ここで信長は、阿閉貞大と永田刑部少輔の取組が見たいと言い出した。貞大と永田の腕っぷしの強さは日頃から評判だったからだ。
奉行の、蒲生氏郷、堀秀政、万見仙千代、後藤喜三郎、布施藤九郎、阿閉貞大、永田刑部少輔が取組を行ったが、とくに貞大は噂通りの強力で見事な戦いっぷりだったが、勝ったのは永田であった。
信長は参加した力士たちに褒美の品々を与え、評価の高い力士は召し抱えられる(家来として雇われる)ことになり、その者たちには太刀と小太刀(脇差)、衣服一式と100石の領地、住まい(屋敷)まで与えられた。
なお、信長が召し抱えた者たちは次のとおりである。
大塚新八、東馬二郎、水原孫太郎、助五郎、村田吉五、麻生三五、青地孫次、山田与兵衛、円浄寺源七、づかう、たいとう、あら鹿、ひしや、妙仁
9月17日、播磨(兵庫県南西部)から信忠が安土城へ戻ってきた。すると信長は10月9日に再び相撲大会を催し、信忠と織田信雄に見物させた。
10月15日、信長は大阪の砦※で守備している武将や兵らの観察役として小姓や馬廻、弓衆を砦に派遣し、彼らは20日交替で観察を行い、信長に状況を報告した。
※(1576年6月~7月に起きた天王寺の戦いで石山本願寺の勢力に勝利した信長は、石山本願寺の周囲に4つの砦(出城)を築き、天王寺の砦には松永久秀、佐久間信盛、佐久間信栄、進藤山城、進藤久通、池田孫次郎(秀雄)、青地千代寿、山岡景宗、水野監物らを置いて守備させた。また、住吉(住吉区)の海岸近くにも砦を築いて沼野伝内と真鍋七五三兵衛に海上の警備を命じていた)
信長は22日に安土を出発して京都に向かい、途中で山岡景隆の瀬田城(滋賀県大津市)に泊まった。翌日、二条殿(二条晴良の屋敷跡に建てた信長の新しい屋敷。1576年7月21日に完成。京都市中京区両替町通御池上る東側)に入った。
なお、10月14日には斎藤新五(斎藤利治。斎藤道三の末っ子で信長の家臣)が越中(富山県)で行動を開始していた。(越中の制圧、または侵攻は信長包囲網を崩すための信長の戦略)
越中の太田保(富山市)では上杉謙信(謙信は1578年4月に他界している)の家臣である長尾景直(椎名小四郎)と河田長親が津毛城(富山市大山)を守備していた。
しかし、斎藤新五が率いる織田軍(尾張・美濃の兵)が津毛城に進軍していることを知ると、景直と長親は城を兵を引き連れて退散してしまった。
戦わずして津毛城を手に入れた新五は神保長住を津毛城に入れ、そこから12キロメートルほど離れた場所に陣を構えて越中の制圧に向けて兵を動かしていた。