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信長公記・8巻その4 「越前の一向一揆(前編)」

信長公記・8巻その4 「越前の一向一揆(前編)」

信長公記・8巻その4 「越前の一向一揆(前編)」
画像:木ノ芽峠城跡

越前に出撃

1575年9月16日(天正3年8月12日)、信長は配下の家臣・部隊に召集をかけ、大軍を率いて越前国(福井県嶺北地方と敦賀市)に向け出発した。越前で発生した一揆を鎮めるためである。

この日は垂井(岐阜県不破郡)で野営(野外で宿泊)し、17日は羽柴秀吉の小谷城(滋賀県長浜市)に泊まった。秀吉は織田の兵に兵糧を振る舞い、士気を高めた。

信長は18日に敦賀(福井県敦賀市)へ入り、武藤舜秀の屋敷で一泊した。なお、越前の一揆衆が拠点にしていた城・砦は次のとおりである。

  • 板取城(岐阜県関市)
    堅固に改修して下間頼俊が加賀(石川県南部)・越前の一揆衆を率いて守備
  • 木ノ目峠砦(福井県南条郡)
    西光寺の僧らが一揆衆を率いて守備
  • 鉢伏城(福井県南条郡)
    専修寺の僧・阿波賀三郎と弟の与三が越前の配下を率いて守備
  • 今城(岐阜県可児市)
  • 火燧城(火打城。福井県南条郡)
    下間頼照が一揆衆を率いて守備。木曽義仲(源義仲)が行ったように能美川と新道川の合流点にある堰(せき)を止め、水を塞き止めて城を堅固に守備
  • 大良越(福井県南条郡)
  • 杉津城(福井県敦賀市)
  • 大塩城(福井県小浜市)
    円光寺の僧が加賀の一揆衆を率いて守備
  • 敦賀方面の海岸近くに城を築き、若林長門と息子の甚七郎が越前の一揆衆を率いて守備
  • 府中城(福井県南条郡)・龍門寺城(福井県越前市)
    三宅権丞が兵を率いて守備

ほかにも城と城の間に防衛の砦が築かれており、越前国は一揆衆によって堅固に守られていた。

9月19日、雨風の中、先に動いたのは織田軍だった。

まずは越前の地侍(浪人)らが先陣となって出撃し、そのあとを柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、滝川一益、羽柴秀吉、荒木村重、安藤守就、稲葉一鉄、稲葉貞通、明智光秀、織田信孝、織田信雄、織田信包、前波吉継と息子、

簗田広正、蜂屋頼孝、氏家直通、細川藤孝、阿閉貞征、磯野員昌、富田長繁、毛屋猪介、原田直政、不破光治、不破直光、織田信澄、武藤舜秀、阿閉貞大、伊勢国の部隊など、合わせて総3万人を超える大軍で大良城へ攻め入った。

海上からは逸見駿河、熊谷伝左衛門、粟屋越中、粟屋弥四郎、内藤筑前、山県下野守、松宮氏、香川氏、畑田氏、白井氏、寺井氏ら水軍が攻め寄せた。

信長公記・8巻その4 「越前の一向一揆(前編)」
画像:明智光秀の肖像(本徳寺)

さらに、丹後国(京都府北部)から一色満信、桜井氏、矢野氏、大島氏らの水軍も集まり、数百艇となった織田軍の船団は軍旗を掲げて各方面から上陸し、至る所で放火を行った。

対する越前の一揆衆は、円光寺の僧たちや若林長門と息子の甚七郎が一揆衆を率いて抗戦したが、怒涛の如く攻め寄せる羽柴秀吉、明智光秀によって大良城は落ちた。

羽柴・明智の部隊は200~300の敵兵を討ち取り、大良越および杉津城、海岸に築かれた城を焼き払った。討ち取った首は、この日のうちに敦賀の信長に届けられた。

夜になり、織田軍は龍門寺城を奇襲して放火した。木ノ目峠、鉢伏城、今城、火燧城の一揆衆は驚いて府中城に退いたが、すでに府中城では羽柴・明智の部隊が待ち伏せしており、加賀・越前の一揆衆2000人余り※を討ち取った。

※(信長は9月21日の日付で「府中の町は死骸計にて都合二千余斬り候」と村井貞勝に書状を出している)

鉢伏城を守備していた杉浦玄任は討死にし、阿波賀三郎と弟の与三は降伏を申し入れたが、これを信長は許さず塙直政に命じて処刑した。

9月20日、信長は1万人の兵を率いて敦賀を出発し、木ノ目峠砦を越えて龍門寺城に陣を構え、今城に福田三河守に入れて守備させた。

そして、山の中に逃亡した一揆衆および専修寺の僧たち、下間頼俊、下間頼照を安居景健(元は朝倉義景の家臣で越前の一揆衆に加勢していたが信長に寝返った)に捜索させ、処刑させた。

景健は下間らの首をもって信長に服従を申し出たが、信長は服従を受け入れず向駿河守に景健の自害を命じ、切腹させた。なお、景健の家臣である金子新丞と息子、山内源右衛門も切腹した。

信長公記・8巻その4 「越前の一向一揆(前編)」
画像:豊臣秀吉の肖像(中村公園プラザ秀吉清正記念館)

22日には丹羽長秀、柴田勝家、津田信澄が鳥羽城(福井県越前市今立町)を攻め、500~600の敵兵を討ち取って落城した。

さらに、金森長近、原長頼は根尾村(岐阜県本巣郡)から徳山村(岐阜県揖斐郡)を経由して大野郡(岐阜県大野郡)に入り、付近に点在していた一揆衆の砦(城)を攻めて火を放った。

完全に一揆は崩壊し、生き残った一揆衆は右往左往しながら山の中へ逃げて行った。信長は手を緩めることなく、「山の中を捜索して見つけ次第、男女を問わず斬り捨てろ」と家臣らに命じた。

9月19日~23日までに捕獲または討ち取った一揆衆は1万2250人を超え、そのほか、奴隷として捕まえた3万~4万人を尾張や美濃に送った。その後、処刑された者も大勢いた。

9月27日、信長は一乗谷(福井市城戸ノ内町)に陣を移した。その矢先、稲葉一鉄と息子の貞通、羽柴秀吉、細川藤孝、明智光秀、簗田広正ら織田の部隊が加賀(石川県南部)に侵攻したという報告が信長に届いた。

10月2日には豊原(福井県坂井市丸岡)へ陣を移し、信長のもとへ小黒(坂井市小黒)西光寺城の僧たちや堀江景忠(いずれも一揆衆だったが降伏して信長に服従)が降伏の御礼を申し述べるために訪れた。

一方、加賀では能美(石川県能美市)と江沼(石川県加賀市)を織田軍が攻め落とし、信長は江沼に大聖寺城と檜屋城を新たに築城し、佐々長秋と簗田広正、堀江景忠を入れさせた。

5日、信長は北の庄(福井市)へ行き、ここに堅固な城を築くように命じた。なお、この城を建てる敷地において、信長は近江高島郡(滋賀県高島市)打下城の城主・林員清を処刑した。

員清は織田の家臣だが、志賀の陣(1570年10月15日~1571年1月12日にかけて織田信長と浅井長政・朝倉義景との間で衝突した比叡山延暦寺の戦い)において林は水軍として船で出撃したにも関わらず、敵へ渋矢(錆矢。ヤジリの錆びた矢)を射るのみで懈怠(けたい。実施すべき行為を行わないこと)を咎められていた。

その責任を追及され、員清は処刑されたのである。越前の一向一揆を平定した信長は、越前国の8つの郡(75万石)と北ノ庄城を柴田勝家に与え、大野郡の3分の2(3万石)は金森長近へ、残り2万石は原長頼に与えられた。

さらに、佐々成政、不破光治、前田利家には府中(福井県南条郡)の近隣の2つの郡(10万石)が与えられ、この地に拠点の城を築き、勝家の補佐・監視役を任せられた。また、敦賀は、引き続き武藤舜秀に任せられた。

こうして、北陸は柴田勝家が支配する地域となり、織田の家臣において勝家の立場は上位となった。

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