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明治時代の幕開け!新政府軍と旧幕府軍が戦った「戊辰戦争」って何?(後編)

明治時代の幕開け!新政府軍と旧幕府軍が戦った「戊辰戦争」って何?(後編)


画像:五稜郭(絵葉書屋)

前編では、鳥羽伏見の戦いから江戸城無血開城、上野戦争に至るまでを紹介し、新政府軍が徳川の本拠地である江戸を完全に占拠したところまでを確認した。

後編では、東北、函館での戦いと戊辰戦争の終結についてチェックしていく。奥羽列藩同盟や旧幕府軍の榎本政権など、戊辰戦争のポイントになることも多いので、順を追って確認していこう。

前編はこちら↓
明治時代の幕開け!新政府軍と旧幕府軍が戦った「戊辰戦争」って何?(前編)

  奥羽越列藩同盟~東北(会津)戦争


画像:戊辰戦争と「奥羽越」列藩同盟(栗原伸一郎)

関東を制圧した新政府軍が次のターゲットにしたのは会津藩と庄内藩。これらの藩と新政府軍には確執があり、とくに薩摩藩は庄内藩に強い恨みをもっていた。

大政奉還が行われる以前、庄内藩は幕府を敵視する薩摩藩の宿舎を見せしめとして全焼させた過去がある。だが、この庄内藩は、とにかく強い。

結論を言うと新政府軍の勝利で終わる東北戦争だが、庄内藩は連戦連勝だったにも関わらず会津藩が降伏したことで共に武力解除している。その経緯を簡単に確認してみよう。

1868年4月21日、新政府は仙台、秋田、盛岡、米沢の各藩に会津藩への攻撃命令を出す。しかし、東北地方の藩は新政府の方針に不満を抱いている者も多く、素直には従わなかった。

5月3日に仙台藩と米沢藩など14の藩が白石城に集まり、それぞれの幹部らが出席して会議(1868年5月3日 白石会議)を開いた。

会津藩と庄内藩に寛大な処置を懇願する要望書を作成し、山形・秋田・青森を管轄していた新政府軍の重職に提出したが却下され、新政府軍ではなく明治天皇に直談判することを決意する。

5月15日、東北の25藩は白石盟約書に調印し、6月22日には計31藩で「奥羽列藩同盟」を締結。奥羽31藩は結束を高め、明治天皇に向けて会津藩と庄内藩の救済を求める懇願書を提示した。

その内容は、「薩摩と長州は私的な過去の恨みで会津と庄内を攻撃しようとしています。これは明治天皇の意向ではないと思うのですが、いかがでしょうか。ぜひ、寛大な処置を願いたいです」といったもの。

ちなみに、会津と庄内は奥羽列藩同盟には加入せず、会庄同盟として奥羽31藩に協力する意向を示している。これにより、奥羽31藩と会庄同盟という新政府にも旧幕府にも属さない新たな派閥が誕生したことになる。

残念ながら東北勢の要望は明治天皇に通らず、東北の各地で新政府軍との戦闘が始まる。東北戦争のなかでも、とくに規模が大きかったのが白河城の戦いと会津戦争であった。

  秋田戦争~久保田藩の離脱


画像:北越戦争を描いた浮世絵-歌川国輝作(新潟県立図書館)

澤為量と大山綱良が率いる新政府軍は庄内藩を討つために仙台から出陣。しかし、庄内藩は西洋式の戦術や武器、高度な戦闘訓練を受けた兵も多く、新政府軍は苦戦を強いられた。

1868年5月12日、奥羽31藩の連盟国である仙台が東北に派遣されていた新政府軍の世良修蔵など複数を殺害し、九条道孝や醍醐忠敬など幹部らは捕えられて軟禁された。

新政府軍は九条を救出するために、佐賀藩の前山長定の軍隊と小倉藩を仙台藩に向かわせた。5月21日、佐賀藩の軍隊は船で仙台に到着し、仙台藩は九条ら幹部らを引き渡した。

7月7日、佐賀藩と九条ら幹部は盛岡藩に到着。盛岡藩の南部利剛は1万両を新政府軍に献金したが、どっちつかずの態度のまま協力の返事が得られなかった。

8月18日、次に佐賀藩は久保田藩に到着し澤為、大山ら新政府軍と合流。久保田藩に新政府軍が接触したことを聞いた仙台藩は、7名の使者を久保田藩に派遣した。

仙台藩に仲間を殺害されていた大山は久保田藩を説得し、8月21日、仙台藩の使者7名を殺害させる。こうして久保田藩は奥羽31藩を離脱し、久保田藩は新政府軍の東北拠点となった。

久保田藩が離脱したことにより矢島藩、新庄藩、亀田藩、本荘藩も奥羽31藩を離脱、新政府軍に服従する。対して庄内藩は、8月31日、新庄藩(新庄城)を攻め落とす。

さらに、久保田藩や矢島藩の領土、本荘藩の領土を次々に制圧していった。亀田藩は庄内藩と和解し、再び奥羽列藩同盟に加入する。どっちつかずの態度をとっていた盛岡藩も庄内藩へ協力する意向を示した。

9月24日、盛岡藩は久保田藩を攻め、大館城を占拠。新政府軍が救援に駆け付け、10月22日には盛岡藩の軍勢を追い返すことに成功した。

  白河城の戦い~会津戦争


画像:会津若松城

東北地方の交通拠点である白河城は、江戸城無血開城が締結されてから新政府軍の管理下になっていた。1868年5月12日、会津藩と仙台藩は連携して白河城を奪取する。(白河城の戦い)

しかし、6月20日、伊地知正治が率いる新政府軍が白河城を奪い返す。以後、会津藩・仙台藩を主力とする奥羽列藩同盟の東北勢およそ4500人と新政府軍が白河口で攻防戦を繰り広げた。

8月31日、東北勢は撤退。新政府軍は白河城を守り切った。

一方、新潟でも新政府軍と東北の同盟軍が戦っていた。4月1日に新潟港が完成して以来、イタリアとプロイセン王国(現在のドイツ北東部)は奥羽列藩同盟の東北勢に武器の販売を始めている。

7月8日、新政府軍は長岡藩を攻撃し、長岡城を占拠。長岡藩は9月11日に八丁沖の戦いで長岡城を奪い返したが、9月15日に新政府軍が奪い返して長岡藩は撤退。(北越戦争)

さらに、新政府軍は米沢藩と会津藩が守る新潟全域を攻め、東北勢は新潟から完全に撤退する。新政府軍が新潟を占拠したことにより、東北の同盟軍は武器を仕入れられなくなり深刻な状況になった。

その頃、茨木(平潟)でも仙台藩と新政府軍が戦闘を開始。8月12日に板垣退助が率いる新政府軍の迅衝隊が白河と平潟の中間にあった棚倉城を占拠。

さらに8月31日、迅衝隊は平城の戦いで磐城平城を占拠。9月8日に新政府軍の四条隆謌が増軍を率いて平潟に到着し、9月15日に二本松城を占領する。(二本松の戦い)

9月22日、相馬中村藩が奥羽列藩同盟して降伏。新政府軍は相馬藩を加えて仙台へ侵攻し、9月26日に駒ヶ嶺を占拠したことで仙台藩との戦闘が始まった。

戦いの末、仙台藩と東北の同盟軍は会津へと退却し、二本松領を占領した新政府軍は次の侵攻先について話し合い、会津への攻撃を決定する。

10月6日、二本松から若松への途中にある母成峠で東北勢に勝利し、10月8日の朝に若松に到着。会津藩は若松城を死守するために白虎隊を投入して応戦するが敗退し、11月6日に降伏した。

そのほかにも続々と新政府軍に降伏し、10月19日に米沢藩が、30日には仙台藩、福島藩、上山藩、天童藩などが降伏したため、奥羽越列藩同盟は崩壊したも同然の状態となる。

連戦連勝で圧倒的な強さを見せつけた庄内藩も同盟の崩壊と会津藩が降伏したことで、11月8日に降伏している。同日、亀田藩も降伏。この時点をもって、東北戦争は終結した。

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