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明治時代の幕開け!新政府軍と旧幕府軍が戦った「戊辰戦争」って何?(前編)

明治時代の幕開け!新政府軍と旧幕府軍が戦った「戊辰戦争」って何?(前編)


画像:戊辰戦争 薩摩藩の藩士(フェリーチェ・ベアト撮影)

戊辰戦争(ボシンセンソウ)は、1868年~1869年にかけて薩摩藩と長州藩、土佐藩らを中心とした「新政府軍」と、徳川幕府を中心とした「旧幕府軍」の対立・内戦の総称である。

さらに、奥羽31藩と会庄同盟という新政府にも旧幕府にも属さない新たな派閥も登場する。明治元年に起きた大規模な戦争であり、その後の日本に大きな影響を与えた出来事と言えるだろう。

戦争の目的は、徳川慶喜が朝廷に政権を返上(大政奉還)したにも関わらず徳川幕府は強大な権力を保持しており、それに危機を感じた新政府が明治天皇を味方につけて徳川家を壊滅するためだった。

  なぜ戊辰戦争は始まった?


画像:明治天皇 絵画と聖蹟「第2回 大政奉還」(明治神宮崇敬会)

戊辰戦争が開戦する経緯で、忘れてはいけない出来事が大政奉還と王政復古の大号令。

1867年10月13日(または14日)に薩摩藩と長州藩は「徳川幕府の討伐が記された詔書(天皇が発する公文書)」を手に入れる。つまり、正式に天皇が徳川家の排除を認めた文書と言える。

この事実を知った慶喜は政権を天皇に返すことで徳川家の破滅を回避した。これが1867年11月9日に二条城で行われた「大政奉還」であり、264年にわたり続いた徳川幕府の終焉を意味する。

しかし実際には、徳川家の権力は簡単に衰えはせず、形式上では天皇に政権を返したが、その後も徳川家が実権を握っていた状況。

この事態に不満を抱いた薩摩、安芸、尾張、越前、土佐の武士たちが12月9日に明治天皇がいる御所に集まり、徳川家の実権が途絶えていないことを申し出る。

申し出を検討した結果、明治天皇は徳川家に与えていた征夷大将軍の取消を宣言。

15代続いた徳川将軍は完全に廃止されることが決まり、徳川幕府が管理していた領地は全て没収される。根こそぎ廃止し、徳川家の権力を潰そうと考えたわけだ。

地位も権力も奪われる慶喜・・・。せめて新政府の一員として採用されたい慶喜は、京都の明治天皇に願いを聞き入れてもらおうと大阪で出発の準備をする。

その頃、武力による徳川家の壊滅を望んでいた薩摩の西郷隆盛は500人の兵を使い、荒くれ者の仕業に見せかけて江戸で強盗や放火をさせ、徳川幕府に味方する連中を挑発した。

あげくの果てには庄内藩の武士たちが寝泊まりする宿舎を銃撃し、挑発にのってしまった旧幕府は仕返しに薩摩藩の宿舎を襲撃する。まさに西郷の狙い通り。

江戸を襲ったり庄内藩の宿舎を襲ったのは表面上では”荒くれ者”の仕業なのだから、旧幕府は堂々と薩摩藩を攻撃したという事実をつくってしまったのである。

12月28日、この知らせを聞いた慶喜は京都に行く準備どころではなくなり、薩摩が仕組んだ挑発とはいえ世間から見れば”徳川が喧嘩を売った”ことになるわけで、もはや戦争の道を選ぶしかなくなったのである。

追い打ちをかけるように1868年1月3日、明治天皇は新政府の成立を宣言する「王政復古の大号令」を発し、徳川家と徳川家に関わる大名や武家の排除を決定。これにより、戊辰戦争が始まった。

  戊辰戦争の開戦~鳥羽伏見の戦い~

戊辰戦争は、各地で起きた内戦を総称した出来事である。

1868年1月26日~30日・・・鳥羽伏見の戦い
1868年3月29日・・・甲州勝沼の戦い
1868年5月3日・・・江戸無血開城
1868年5月11日~15日・・・宇都宮城の戦い
1868年5月24日・・・市川・船橋の戦い
1868年7月4日・・・上野戦争
1868年8月21日~11月8日・・・東北戦争
1868年12月5日~1869年6月27日・・・箱館戦争(五稜郭の戦い)

1868年1月26日に旧幕府軍が一万人の兵を引き連れて京都へ進軍し、伏見の奉行所と淀(現在の淀池上町)の2ヶ所に分かれ、戦闘の準備を開始。

対する新政府軍は薩摩と長州あわせて5000人の兵が伏見と鳥羽で待機した。淀の旧幕府軍は27日に鳥羽街道を北上し、小枝橋あたりに陣をかまえる新政府軍と直面する。

旧幕府軍は「天皇に会いに行くから道を開けて」と新政府軍に申し出るが拒否される。旧幕府軍は戦闘態勢に入ると、瞬時に新政府軍から激しい銃撃を受けて甚大なダメージを被り後退。

鳥羽街道の銃声や大砲の音が伏見の奉行所まで聞こえ、それを合図にしたかのように奉行所を包囲していた新政府軍の薩摩が一斉に砲撃を開始した。

伏見に配置していた旧幕府軍の会津藩や新選組が強気に攻めたが、西洋式の戦法を取り入れ高い技術の訓練を受けた薩摩軍は強敵で、旧幕府軍は次第に追い込まれて夜には伏見から撤退。

そして、1月28日に明治天皇は仁和寺宮嘉彰親王(小松宮彰)に錦旗と節刀を与え、さらに征夷大将軍に任命する。

錦旗とは、朝敵(天皇に敵対する者)の討伐を指揮するリーダーに天皇が与えるもので、天皇の命令を受けて軍事的な指揮権を持っているという証。節刀も同様に、征夷大将軍に与えられる刀である。


画像:戊辰所用錦旗及軍旗真図 浮田可成(公文附属の図・294号-国立公文書館)

つまり、事実的に新政府軍は天皇を守る軍隊となり、一方の旧幕府軍は天皇に歯向かう反乱軍となる。29日に錦旗を掲げた小宮が率いる新政府軍は淀まで進軍。

旧幕府軍は戦意を失い、大阪城まで撤退し、「鳥羽・伏見の戦い」は新政府軍の大勝で終わった。1月30日、慶喜は大阪城に戻ってきた兵に対して新政府軍と戦い続けることを宣言する。

しかし、その日の晩に慶喜は護衛と家来を引き連れ大阪城を脱出。これを知った大阪城の兵たちも、次々と31日のうちに城を脱出した。

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