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信長公記・首巻その6 「桶狭間の戦い」

信長公記・首巻その6 「桶狭間の戦い」


画像:青木康洋・著「戦国武将、決断の瞬間」より「今川義元」(コスミック出版)

桶狭間の戦い

1560年6月10日(永禄3年)、駿河衆(今川義元)軍勢は先鋒が沓掛(愛知県豊明市沓掛町)に到着し、翌日には大高城(名古屋市緑区)へ兵糧を運び込んだ。

砦を守る家臣らは「駿河衆が6月12日に織田軍の各砦を落としにかかる」と予想し、前日の夕方から丸根と鷲津から信長に報告が相次いだ。しかし、信長は重要なことを述べるわけでもなく、雑談しただけで家臣らに砦へ戻るよう指示した。

そして、12日の早朝、鷲津の砦と丸根の砦が駿河衆に囲まれたという報告が入った。すると信長は「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と敦盛(幸若舞に登場する唄)の舞を踊った。

しばらくして、「ほら貝を吹け」「装備を整えろ」という信長の号令が響き渡り、信長は立ちながら飯を済ませると兜を被って馬にまたがり、清洲城を出発した。

あまりに急な身支度であったため、信長と一緒に出発できたのは岩室長門守(岩室重休)と小姓など5騎だけであった。

信長と5騎は12キロメートルを一気に駆け抜けて熱田(名古屋市熱田区)に到着し、上知我麻神社(現在は熱田神宮の敷地内にある)の前で大高の方角に煙が立ち上っているのを信長は見て、鷲津と丸根の砦が落ちたことを悟った。

その間に、遅れて清洲城を出発した兵たちが200名ほど熱田に到着した。熱田から丹下の砦(名古屋市緑区)に入り、さらに善照寺の砦(名古屋市緑区)に進んで残りの兵が到着するのを待ち、戦備を整えた。

信長のもとに、今川義元が4万(2万5千という説もある)の兵や馬を止めて桶狭間(名古屋市緑区と愛知県豊明市の境目)で休息しているという報告が入った。このとき、時刻は昼だった(6月12日)。

義元は鷲津と丸根の砦を落として機嫌が良く、陣中で浮かれていたという。

また、松平元康(のちの徳川家康。このときは今川家で人質生活を送っていたので今川軍の一員である)は、先鋒として大高や鷲津、丸根で奮戦したため、大高城で休息していた。

信長が善照寺に入ったのを知った織田家の家臣・佐々隼人正(佐々政次)は、「殿と合流する前に好機をつくるぞ」と300の兵を引き連れて大高へ突撃してしまい、攻撃は今川軍に簡単に防がれ隼人正を含む50人ばかりの兵が戦死した。

信長は善照寺から中島(名古屋市緑区)の砦に移ろうとしたが中島までの道は沼地や田んぼが広がっているため、今川軍から容易に見つかる可能性が高く、家臣たちは「危険なので考え直してください」と信長を引き留めた。

しかし、信長は引き留めに応じす、中島の砦へ移った。このとき、織田軍の兵は2000人に満たなかった。そして、信長は全軍に言い渡した。

「敵は兵糧の運搬や鷲津、丸根の砦を落とすために奮戦して疲れ果てている。それに比べて我々は気力が有り余っている。古くから"運は点にある、小軍であっても大軍を恐れるな"と言うではないか。とにかく攻めに攻めて敵軍を切り崩してやろう。刀や馬など奪取せず、討ち取った首も持って帰るな。とにかく目の前の敵を蹴散らせ。この合戦に勝てば、ここに集まった者たちは子孫に受け継がれる武功者である」と言い、奮い立たせた。


画像:桶狭間古戦場

織田軍の先鋒隊であった前田利家や毛利十郎、木下雅楽助らが討ち取った首をもって参陣した。これらの武将たちも隊に組み込み、桶狭間の近くまで今川軍に気づかれぬように密かに進軍した。

※注釈
これまでの説では善照寺から北に迂回して桶狭間の北にある太子ヶ根を出て眼下の谷間で休息していた今川軍を奇襲したと言われてきたが、近年の研究では、中島から東海道沿いに南東へ直進して桶狭間の南の山で休息していた今川軍を正面から攻撃したという説が有力になっている。

今川軍の陣近くに着くと、突然に空が曇り、強風が吹き、豪雨が降り注いで嵐となった。織田の兵たちは「熱田神宮の神様が力を貸して下さった」と口々に言い合い、少し嵐が止んだ隙に「全軍、突撃」という信長の声が響き渡った。

このとき、今川軍は吹き付ける雨を正面にして戦い、対して織田の兵たちは豪雨を背にして戦ったため、有利な状態で戦えた。時刻は未刻(14:00頃)であった。

今川軍は総崩れとなり、義元は300の兵に護衛されて後退した。信長は少数の兵を引き連れて義元に突撃し、義元の護衛を50人ばかりまで減らし、信長も馬を降りて自ら長槍を振るって奮戦した。

乱戦のなか、織田の家臣・服部小平太(服部一忠)が義元に怪我を負わせ、義元は刀で服部の膝を払って防いだが、今度は横から織田の家臣・毛利新介(毛利良勝)が突進して義元に槍を突き刺した。


画像:歌川豊宣・画「尾州桶狭間合戦」(名古屋市図書館)

新介は斯波義統が信友に謀殺された際、窮地に陥った義統の息子・義銀を守って救援した武将である。その働きが神に認められ、桶狭間での功績に繋がったのであろうと人々は噂したという。

さて、桶狭間は谷が入り組んでおり、谷底は沼地や田んぼが広がっている。戦場としては場違いな難所であり、撤退する今川軍は沼地で足をとられ身動きできず、次々と織田の兵たちに討ち取られていった。

信長から首は持ち帰るなと言われていたが、信長のもとに討ち取った首を多くの兵たちが誇らしげに持ってきた。信長は晴れやかな表情で桶狭間から清洲城へと帰還した。

とはいえ、今川軍にも勇士はいた。今川の家臣・山田新右衛門は義元が討たれたと聞くと直ぐに馬にまたがり、一人で織田の軍勢に突撃し、壮絶な戦死を遂げた。

また、二俣城(静岡県浜松市天竜区)の城主で今川の家臣・松井五八郎はと、その家臣200人は劣勢の中でも顔色一つ変えずに果敢に戦っていた。

信長は馬先に義元の首をぶら下げ、合戦の当日に清洲城へ帰還した。清州に持ち帰られた首は3000を超え、翌日(6月13日)に首実験が行われた。

このとき、義元と親しかった今川の家臣(同朋、友人という説もある)を織田の家来・下方九郎右衛門が捕まえており、その者に討ち取った首を見せて姓名を書かせ、判別した。

この者に信長は褒美を与え、僧侶を従わせて義元の首を駿河に持ち帰らせた。

鳴海城では岡部元信が立て籠もっていたが、義元が討死にしたことを聞いて降伏した。次いで、義元が占領した大高城、沓懸城、池鯉鮒城、重原城も降伏し、信長の所領となった。

清洲から熱田へ向かう途中の南須賀(名古屋市熱田区須賀町)に義元の塚を築き、千部会(1000人の僧侶が強を読んで供養する)が行われ、大きな卒塔婆が建てられた。

※注釈
1876年には桶狭間古戦場に義元の墓が建てられ弔われた。義元が所有していた名刀・宗三左文字(義元左文字とも呼ばれる)は信長の愛用品となり、現在は重要文化財に指定されている。

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