信長公記・11巻その3 「神吉城の戦い」
画像:神吉城跡
神吉城の戦い
1578年7月30日(天正6年6月26日)、播磨(兵庫県西南部)に在留している織田軍のうち、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀の部隊は三日月山(兵庫県佐用郡)へ登り、羽柴秀吉と荒木村重の部隊は高倉山(兵庫県佐用郡)の陣を払って書写山(兵庫県姫路市)に移動した。
31日には織田信忠の軍勢が神吉城(兵庫県加古川市)を包囲し、城の北から東の山にかけて信忠、織田信孝、細川藤孝、佐久間信盛、林秀貞らの部隊が左右にわかれて攻撃態勢に入った。
一方、志方城(加古川市志方町)では織田信雄も城を包囲し、丹羽長秀と若狭州(福井県南部から敦賀市を除いた地域の勢力)は城の西の山で援護に備えた。
そして、滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、稲葉一鉄、荒木村重、武藤舜秀、安藤守就、筒井順慶、氏家直通らの部隊は神吉城を目掛けて突撃し、城壁の守備を打ち破って城は無防備になり、城壁を崩して城内に攻め入った。
このとき、織田信孝が足軽と先を争って城へ乱入したが、敵兵の銃撃に苦戦した。戦いは大混戦となり、多くの負傷者や死者が出た。織田軍は一気に城を落とすのは難しいと判断し、ひとまず兵を引き揚げて翌日を待った。
8月1日、敵兵の銃撃に備えて竹束(竹を束ねて作った銃弾除けの防具)を携え、城の塀まで進軍して堀を草で埋め、築山(人工的に築く小山)を作り、城に攻め入った。
播磨への侵攻が進むなか、羽柴秀吉は但馬(兵庫県北部)に進軍していた。そして、但馬を縄張りとする武将や勢力を服属させ、竹田城(兵庫県朝来市)に羽柴秀長を入れてから書写山(兵庫県姫路市)へと引き返した。
一方、神吉城では敵兵が手薄となっていた城の南から織田信包が攻め寄せた。神吉城に敵兵の援護部隊が来る動きもみられず、西の山で待機していた丹羽長秀と若狭衆も城攻めに加わった。
丹羽の部隊は城の東に配置し、井楼(井桁を組んで作る高所から敵を見張るためのヤグラ。井桁の形で組んだ材木の隅に切り込みを入れて積み上げていく建築構造)を2つ築いて城内へ大鉄砲を打ち込んだ。
そのあとで、城の塀まで進軍して堀を草で埋め、築山(人工的に築く小山)を作って城に攻め入った。滝川一益は城の南から丹羽の部隊に加わり、金堀衆(金や銅を掘る職人たち)を導入し、井楼を組み、大鉄砲で塀や櫓を破壊して城内へ火を放った。
そのほかの部隊も井楼や築山を用いて昼も夜も途絶えることなく猛攻を続けた。窮地に追いやられた敵勢は降伏を申し入れてきたが、これを信長は認めずに攻勢を崩さないよう家臣らに申し伝えた。
画像:別所長治の肖像(兵庫県立歴史博物館)
神戸から明石、明石から高砂、どちらも距離が遠く、海上から攻め寄せる敵の水軍に備えて警固が必要であると考えた信長は、8月2日、織田信澄に山城衆(京都府南部の勢力)を預けて現地に向かわせ、信長の側近である万見重元を派遣した。
信長は、警固および海上の監視に最適な要所を抑えて部隊を置くように指示し、信澄と重元は条件に合う山※を見つけて砦を築き、その砦に部隊を置いた。重元は信長のもとへ戻り、状況を報告した。
※<補足>
神戸~明石、明石~高砂は距離が遠く、中国地方の水軍(毛利・小早川・宇喜多・因島村上氏・能島村上氏・来島村上氏の連合水軍。つまり、毛利水軍である)が水上から攻め寄せたときの対応が懸念されていた。
神戸・明石・高砂は播磨攻めにおいて重要な地域であり、これらの地を掌握するのは信長にとって必須だった。そこで、信長は神戸・明石・高砂を監視できる拠点を作るように織田信澄に命じ、側近の万見重元を派遣した。 そして、神戸と高砂の中間にある明石の大窪に監視するための砦を築いた。現在は明石市大久保町大窪中之番という地名になっており、「中間」の「番所」という意味合いでないかと思われる。 また、山陽道に近い場所で、北には三木城(兵庫県三木市)があり、西には神吉城(兵庫県加古川市)もあり、播磨攻略の重要拠点として大切な場所だったと言える。 |
さらに、信忠は信澄が築いた監視の砦に近い街道(山陽道)を簗田広正、林秀貞、市橋長利、浅井新八、塚本小大膳、中島勝太、和田八郎らに交代で警固させた。
8月11日の巳の刻(午前10時から正午までの2時間)、金蓮寺(京都市北区。時宗四条派の寺院)の衆寮(僧侶らのための寮舎)から出火するという出来事が起きるなど、世間では火事や不審火が頻発していた。
18日の夜、丹羽長秀と滝川一益の部隊は神吉城の東の丸に突入し、19日には中の丸へ攻め込んで城主の神吉頼定を討ち取った。そして、天守に火を放ち、天守が崩れ落ちると多くの敵兵が焼け死んだ。
このとき、荒木村重は西の丸から攻め込んでいた。城内では神吉藤大夫が抗戦していたが、しばらくして藤大夫が開城を申し入れてきたので、佐久間信盛と荒木村重は志方城(加古川市志方)への退去を条件に降伏を許した。
神吉城は陥落し、やがて織田信雄と丹羽長秀らが攻めていた志方城も落城し、これらの城の処置は播磨攻めの主導である羽柴秀吉に一任された。
神吉、志方を制圧した織田軍は別所長治が立て籠もる三木城へ進軍し、周辺に砦を築いて陣を構えた。
九鬼嘉隆の大船
画像:九鬼嘉隆の肖像(常安寺)
信長は大船6隻の製造を九鬼嘉隆に命じていた。さらに、滝川一益には白い大船(鉄甲船)を1隻、造るように命じていた。
1578年7月30日(天正6年6月26日)、九鬼嘉隆は完成した7隻の船団を率い熊野(歌山県田辺市)を出発し、海上で大阪湾に向かった。
渡航中、雑賀二組※(雑賀荘と十ヶ郷)や大阪の勢力(石山本願寺に加勢する者たち)が乗る小舟が淡輪(大阪府泉南郡岬町淡輪)の海上で攻撃を仕掛けてきた。
※(雑賀二組とは雑賀衆の内、雑賀荘と十ヶ郷の勢力。雑賀衆は和歌山市の雑賀荘・十ヶ郷・中川郷・三上郷・宮郷の5つの地域の地侍らで構成された武装集団。そのため、雑賀衆は雑賀五組とも呼ばれる。信長の戦力である中川郷・三上郷・宮郷(雑賀三組)に対し、雑賀荘と十ヶ郷(雑賀二組)は石山本願寺の戦力である)
敵船は九鬼の船団に次々と矢や銃弾を放ち、四方を込んで攻め立ててきた。
対する九鬼の船団は大砲で一斉砲撃して多くの敵船を撃沈させた。海上戦は九鬼の圧勝に終わり、渡航を続けて8月20日に堺(大阪府堺市は大阪湾に面している)に着いた。
21日には大阪湾に入り、要所に船を配備して大阪湾を封鎖した。これにより、中国地方の水軍(毛利水軍)は海上から大阪へ上陸するのが難しくなったのである。
話は変わるが、信忠は鷹4羽を岐阜城の庭で飼っていた。いずれも立派に育て上げた信忠は、鷹匠(鷹の飼養や調教、鷹狩を司る名人)と呼ぶにふさわしい人物であった。
8月26日、信忠は、その4羽の鷹を鷹匠の山田と広葉に持たせ、安土城の信長のもとへ届けさせた。なお、このとき信忠は三木城の戦いに備えて播磨(兵庫県西南部)の三木(三木市)で陣を構えていた。
信長は1羽の鷹を頂戴し、残り3羽は持ち帰らせた。鷹匠に褒美として銀五枚と衣服を一人ずつに与えた。
また、9月5日には津軽(青森県西部)の南部宮内少輔(南部季賢)から信長へ鷹5羽が贈られた。9月11日、信長は南部季賢の使者を万見仙千代の屋敷に迎え、宴を開いて返礼のもてなしを行った。