信長公記・4巻その1 「太田口の合戦」
画像:豊臣秀吉の肖像(中村公園プラザ秀吉清正記念館)
佐和山城の降伏
1571年3月19日(元亀2年)、佐和山城(滋賀県彦根市)に立て籠もっていた浅井長政の家臣・磯野員昌が降伏し、高島(滋賀県高島市)に退散した。信長は丹羽長秀を入城させ、居城とさせた。
箕浦の合戦
休戦の沈黙を先に破ったのは浅井長政だった。5月29日、浅井軍は姉川(滋賀県長浜市野村)に進軍し、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が守備する横山城(滋賀県長浜市堀部)の近くに陣を構えた。
そして、先鋒隊の足軽大将・浅井井頼(浅井七郎)に5000の兵を与えて箕浦(滋賀県米原市)の鎌刃城(城主は堀秀村)まで進軍させ、周辺の田畑や村に火を放たせた。
この動きを知った藤吉郎は横山城に守備の兵を残し、およそ100の兵を引き連れ敵に悟られぬよう静かに城を出た。密かに箕浦まで進み、堀秀村と樋口直房と合流し、計500~600の兵力となった。
しかし、鎌刃城にいる敵兵は5000であり、兵力の差は歴然。木下隊(堀と樋口の兵も合わせた連合部隊)は足軽を中心に敵軍に突撃し、下長沢(滋賀県米原市)で戦闘が開始された。
樋口直房の武将・多羅尾相模守が討死にし、それを知った多羅尾氏の家臣・土川平左衛門が敵軍に突進して見事な討死にを果たした。
苦戦を強いられた木下隊だったが、敵兵の大半が町人や農民の寄せ集めだったということもあり、武力で押し崩して数十人を討ち取った。勢いに乗った木下隊は下坂(長浜市下坂浜)さいかち浜でも戦い、勝利。
浅井井頼の軍は八幡下坂(長浜市神前町)に退散し、敗走を知った浅井長政は戦闘続行を断念して居城である小谷城(長浜市湖北町)へ引き返した。
大田口の合戦
6月4日、信長は伊勢の長島(三重県桑名市)で起きていた一向一揆(伊勢長島一向一揆)を鎮圧するために出陣した。織田軍は津島(愛知県津島市)に入り、本陣を構えた。
そして、三方向から攻め寄せ、中筋口(桑名市の大鳥居城の辺り)から佐久間信盛、浅井新八、和田新介、中嶋豊後、山田三左衛門、長谷川丹波が進軍。
多芸山(岐阜県養老町と大垣市上石津町にまたがる山)から大田口(岐阜県海津市南濃町)に向けては、柴田勝家、氏家直元、稲葉一鉄、市橋長利、不破光治、伊賀平左衛門、塚本小大膳、丸毛長照、飯沼勘平が進軍した。
8日、大田口の周辺に火を放っていた織田軍を目掛け、一揆衆が弓と鉄砲で襲いかかってきた。山中の細道で身動きがとれなくなった織田の部隊は乱れ、殿軍の柴田勝家が一揆衆と奮戦したが、これ以上の応戦は危険と判断した柴田は退却した。
氏家直元も必死に抵抗したが、一揆衆に囲まれて氏家の家臣や兵は全滅。直元も討死にし、大田口の合戦で織田軍は惨敗してしまったのである。一揆衆は、小川村と志村(どちらも滋賀県東近江市)に引き返していった。
9月、軍を整えた信長は岐阜城を出発し、7日に横山城(滋賀県長浜市)に陣を構えた。9日の夜、横山に強風が吹き荒れ、城の櫓や塀が破壊された。
小谷城の西にある山本山(長浜市湖北町と高月町にまたがる山)は要所として有名で、そこから2.5キロメートルほどの場所に中島(長浜市湖北町小谷丁野)という村があった。
15日、信長は中島に移動し、与語(余呉村)と木本(木之本町)に足軽を向かわせて火を放った。その後、16日に横山の陣営に引き返した。17日、信長は丹羽長秀の佐和山城に宿泊。
このとき、織田軍は一向一揆の衆が身を潜めていた小川村と志村を焼き払っている最中であった。
志村城(新村城)の戦い
画像:金ケ森城跡(滋賀県守山市)
9月19日、信長は佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、中川重政に命令を下し、志村城(新村城。滋賀県東近江市東新宮町)に出陣させた。これら4人の武将は城を四方から囲んで攻め寄せ、城壁を越えて突撃し、670の首を挙げて勝利した。
隣町にある小川城の城主は浅井の家臣・小川孫一郎だが、織田の猛将たちが暴れまくる姿を見て恐怖を覚え、直ちに人質を差し出して降伏を申し入れた。信長は承諾し、降伏を受け入れた。
信長は佐和山を出て常楽寺(滋賀県近江八幡市安土町)に移動し、21日には一向一揆衆が立て籠もる金ケ森城(滋賀県守山市)に軍を出陣させた。
織田軍は金ケ森城の四方を鹿垣(枝のついた木や竹で作った柵)で囲み、城外の農作物を全て刈り取り、鉄砲隊や弓矢隊、足軽たちが城内に睨みをきかせていた。
立て籠もる一向一揆衆は戦意を失い、人質を差し出して降伏を申し入れてきた。信長は降伏を受け入れ、金ケ森城を落としたあと、織田の配下にある武将らに近江の南方へ進軍するよう指示を出した。
信長は大軍を率いて瀬田(滋賀県大津市)の山岡景猶の屋敷に陣を構えた。織田の兵らは近江の南を攻めると思っていたが、侵攻する先は南ではなかったのである。