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織田信長と濃姫の結婚は父親同士が勝手に決めた”政略結婚”だった?

1549年2月24日に織田信長は濃姫(帰蝶)と結婚したが、濃姫は斎藤道三の娘で、15歳で織田家に嫁いだ。また、濃姫は明智光秀の従兄弟(いとこ)にあたる。

そう。信長は妻の従兄弟に暗殺されたわけである。それはさておき、今回は濃姫が信長と結婚するまでの過程を確認してみよう。

なぜ信長は濃姫を妻にした?

信長と濃姫の結婚は、信長の父である信秀の時代まで話がさかのぼる。

尾張(愛知県西部)の半分を手中に収め、三河(愛知県東部)へも侵略して領地拡大しつつあった信秀だったが、美濃(岐阜県)への進攻は何度挑戦しても上手くいかなかった。

当時、美濃を仕切っていたのは斉藤道三。腕っぷしが強く性格も荒い、その風貌から”マムシ”と恐れられるほど手ごわい相手だったのである。

画像:本朝名将百図「斎藤道三画像」長浜城歴史博物館)

1547年に信秀と道三が激突した加納口の戦いでは、越前(福井県)の朝倉氏の援助を受けながらも手痛い敗北を受け、ここに来て方針転換せざるをえなくなる。

信秀の進攻を牽制するために三河の松平広忠が駿河(静岡県)の今川義元と同盟を結んだのだが、その同盟の保証として松平家から今川のもとへ人質に出されたのが竹千代(のちの徳川家康)だった。

しかし、信秀は竹千代をさらってしまう。これ以降、竹千代は織田家の人質として幼少期を過ごすことになる。もちろん、この出来事に広忠は納得いかない。

さらに追い打ちをかけるように、美濃の道三と尾張の信秀が同盟を結ぶ。お互いが同盟国になった証として、道三の娘・濃姫と信秀の息子・信長が結婚する。いわゆる”政略結婚”というわけだ。

濃姫が消えた?

信長の正室(本妻)となった濃姫。実は、彼女の生涯について記録された資料は残っていない。天下統一に一番近いと言われた男の妻なのに、不思議なくらい濃姫の人生は謎に包まれている。

数少ない文献(信長公記)によれば、婚礼に大喜びの信長が宴会を催した話や津島神社(愛知県)のお祭りに出かけた話など端的な結婚当初の出来事だけで、それ以外は謎。

あげくの果てには、濃姫の行方すら不明という展開。いつまで信長と暮らしたのか、いつ死んだのか、もしくは本能寺の変が起きたあとに身を潜めたのか、まるで存在していなかったかのように”消えて”しまった濃姫。

左・・・濃姫を演じる柴咲コウ 右・・・信長を演じる小栗旬

画像:©2016映画「信長協奏曲」製作委員会

濃姫の行方については様々な憶測や説が飛び交っているが、明確な見解はだされていない。そんな濃姫だが、元々の名前は帰蝶。ただし、これについても確たる資料はない。

信長の尾張に嫁いだことにちなみ、美「濃」から来た「姫」という意味で濃姫と呼ばれていた。濃姫は信長との間に子供ができず、信長の息子・信忠、信雄、信孝は皆、側室(愛人)との間にできた子どもたち。

濃姫の行方について唯一信ぴょう性がもてる資料は「濃陽諸士伝記」「言継卿記」である。これによると、1561年に斎藤義龍(道三が死んで斎藤家を継いだ2代目)が亡くなった頃には、濃姫が病気を患い死亡したことを思わせる記述がある。 (濃陽諸士伝記より)

しかし、「言継卿記」には、義龍が亡くなったあとに斎藤家の名器(壷)を信長が欲しがったとき、「信長の本妻が抗議した」と記されていて、斉藤家と織田家の関わりを考えると本妻というのは濃姫の可能性が高く、この時点では信長のそばにいたことになる。

この二つは「義龍が亡くなったあと」の話、つまり同時期の出来事について記されているため、「義龍の死後、病死」または「義龍の死後、まだこの時点では信長のそばにいた」という全く異なる話になる。

元も子もないことを言えば、実は濃姫と呼ばれていたのかも不正確。また、信長と濃姫の結婚の経緯は父親同士が勝手に決めた政略結婚で、同盟国の証としての結婚だった。

道三が長良川の戦いで戦死すると、必然的に斎藤家との同盟は解消されたことになる。濃姫を妻として織田家に置いておく必要がなくなるわけだ。

このことから、長良川の戦いのあと、濃姫は殺されたという説もある。

画像:斎藤義龍の像(常在寺)

<長良川の戦い>

道三と、道三の息子・義龍が岐阜県の長良川で戦った出来事。

1548年に道三は長男の義龍に家督を譲り、鷺山城に隠居していた。しかし、義龍を無能と決めつけバカにし、孫の四郎や喜平次といった義龍の弟たちを可愛がるようになった。

そんな父の態度に激怒した義龍は我慢の限界に達し、1555年に叔父の長井道利と共謀して弟の孫四郎とや喜平次を家来の日根野弘就に命令して殺害する。

道三は激怒し、1556年4月に兵を集めて義龍を討つことを決意。ところが、第一線を退いて隠居生活を送っていたため、、思うように兵が集まらない。

4月20日、義龍は1万7000の兵で稲葉山城を出陣。一方、道三の兵は7000人。初めは道三が優勢であったが、義龍の軍は人数が多く、さらに義龍の指揮が優秀で道三は劣勢になる。

このとき道三は、義龍を無能と決めつけていたことが誤りであったと認めたという。追い詰められた道三は自害し、この世を去る。

信長は浅井長政と共に道三の援軍に向かったが、すでに道三が戦死したことを聞くと尾張へ戻った。

義龍は長良川の戦い後、このことを悔やんで出家し、坊さんになったが病気を患い、1561年6月には悪化した病気により死去する。35歳であった。

 

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