画像:豊臣秀吉肖像画(秀吉清正記念館-中村公園文化プラザ)
豊臣秀吉は天下をとってからの名前。織田信長に仕えていた頃は羽柴秀吉(藤吉郎という説もある)と名乗り、生まれは尾張国(愛知県中村区)で農家の息子として生を授かった。
少年から青年まで、いくつも転職を繰り返したという。その後、18歳の時に信長を見て、織田家で仕えるという夢を抱く。出世して腹いっぱい飯を食うんだ、と。
やがて訪れたチャンスを見事ゲットして雑用係として織田家で働くようになる。気配り上手で人が嫌がる仕事でも率先して取り組んだ秀吉は、すぐに信長に気に入られ、雑用係から武士の見習いへと出世。
「草履を温めた話」や「猿のマネをして喜ばせた話」など秀吉にも多くの逸話がある。さて今回は、そんな秀吉の人物像を血液型と照らし合わせながら見ていきたいと思う。
O型の特徴は?
秀吉の血液型はO型、とのこと。秀吉のエピソードを紹介する前に、まずはO型の特徴をチェックしてみよう。さて、O型の人間は「負けず嫌い」で「自信家」タイプとある。
仕事面では要領よく処理できる能力を持ち合わせているので出世も早く、人間関係に気を配るためコミュニケーションを大切にするのでリーダー向きだとか。
画像:2014常設展「豊臣秀吉~波瀾万丈の生涯」豊富秀吉之木像(大阪城天守閣)
・目標をしっかり持っていて努力を惜しまず一生懸命に取り組める
・精神力が強くて他人に頼るよりもまずは自分で何とかしてみる
・自分の能力を信じていて目標に向かって突き進む自信家
・向上心が高くて他人に負けることが大嫌い
・仕事熱心で率先して作業に取り組んで、要領も良い
・夢や理想を求める情熱的なロマンチスト
・人と人との繋がりを大事にして人間関係を大切にする
・人付き合いで好き嫌いがはっきりしている
・地道にコツコツと努力を重ねるタイプだけど飽き性な一面もある
・人間観察に優れていて面倒見が良いからリーダーに向いている
この中からタイプを当てはめると、秀吉は負けず嫌いのO型。自分の尊敬する人物のためであれば、どんなことでも頑張る。また、忠誠心が強くて自分の尊敬する人を裏切ったりしない。
秀吉にとって尊敬する人とは信長である。命懸けの仕事でも信長に命令されれば素直に引き受けていた。本能寺の変は”秀吉が黒幕ではないか?”なんて説もあるが、ここでは話が反れてしまうのでスルーする。
1566年、秀吉が30歳の頃に起きた出来事といえば、「墨俣(すのまた)一夜城」の話は外せない。
信長は美濃(岐阜県)の稲葉山城を攻撃して自分の領地にしたいと考えていた。そのためには稲葉山城の動きを監視するための展望所が必要だった。
信長は展望所の建設予定地を稲葉山城が見渡せる「墨俣(すのまた)」という地域に決定したが、墨俣は敵の領地で簡単に展望所を建てるのは難しい。
そこで白羽の矢が立ったのが秀吉。「お前が責任者となって展望所を完成させよ」と直々に命じられる。チャンス!と言わんばかりに一つ返事で引き受け、早速取り掛かった。
無理難題に情熱を燃やす
信長に重要な任務を与えられた秀吉。絶対に成功させて出世してやる。と意気込んだ。
しかし、実際には問題だらけ。「そもそも敵の領地に展望所を建てるなんて無理だろ」と同僚や上司は口を揃えて言う。つまり、攻撃を交わしながら造るの?ということになるのだ。
ここでO型の性格が現れる。
自分の尊敬している人に頼まれた仕事を投げ出すわけがない。無理難題に情熱を燃やしてしまうのがO型。不可能と言われれば持ち前の負けず嫌いが顔を出し、何とかしてやり遂げようと考えるのだ。
秀吉は、敵に邪魔されながらも試行錯誤する。
その結果、誰もが驚くような短い期間で「墨俣城」を完成させた。あまりの速さに「墨俣一夜城」(一晩で完成させた・・・という意味)とも呼ばれ、その功績を信長に称えられている。
画像:太閤出世橋(墨俣一夜城)
でも、どんな方法で秀吉は墨俣城を完成させたのだろうか。秀吉は「プレハブ式工法」という建築方式を用いて建設している。これは、現代でも使われている建築技術の一つ。
敵地で木材を堂々と運ぶのは不可能。そこで、いい案を思いつく。
木曽(長野県の西)の山中で切った木材を長良川(岐阜県の中央を南下する川)の上流で加工したあと、長良川に浮かばせて下流の墨俣(墨俣一夜城の建設地)まで水の流れを利用して運んだ。
そして、その木材を墨俣でキャッチし、組み立てた。別の場所で資材を加工し現地で組み立てる=プレハブ式工法を実行したのである。これにより圧倒的な速さで墨俣城は完成する。
敵の攻撃も最小限に抑えることができたのである。まずは外観を組立て、敵の攻撃に耐えながら改修を加えていき、はっきり言って内観なんてどうでもいい。展望台として使用するのが目的だから。
1566年に城を完成させると、その功績を認められた秀吉は墨俣城の城主に任命されるのである。信長の悲願であった美濃の攻略も成功し、その後、信長の京都進出へと秀吉は貢献したのであった。
これをきっかけに秀吉は、武士の見習いから武将へと出世した。実質的に織田家の家臣となった。
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