信長公記・1巻その2 「足利義昭の上洛が完成」
画像:足利義輝の肖像(国立歴史民俗博物館)
上洛
1568年9月27日(永禄11年)、信長は義昭に「心配は無用。江州矢嶋(滋賀県守山市)の六角承禎(六角義賢)を討ち、京都までお届けする」と出陣の口上(挨拶)を述べた。
出発の準備を整え、信長のもとへ終結した軍勢は所領の尾張勢・美濃勢・に加え三河勢(愛知県の東部。徳川家康と1563年に同盟を結んでいる)も合わせ4万に及んだ。
4万の織田軍は岐阜城を出発し、平尾村(岐阜県不破郡垂井町の村)で一泊して翌日(28日)江州高宮(滋賀県彦根市)まで進み、2日ほど滞在して兵と馬を休息させた。
10月1日に軍勢は愛知川(滋賀県の東部を流れる淀川水系の一級河川)の近くまで進み、ここに陣を構えた。
まずは騎馬兵を走らせ近辺に敵が潜伏していないかを確認し、六角承禎、六角義治(二人は親子)が立て籠もる観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)に近接する箕作城(岐阜県八日市市)の攻略を開始した。
10月2日、信長の指示で佐久間信盛、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)、丹羽長秀、浅井新八らが箕作城を攻めた。攻撃は申刻(15:00過ぎ)に始まり、夜半(深夜2時)に城は落ちた。
信長は箕作山に陣を移し、10月3日には観音寺城を攻める意思を全軍に示した。しかし、箕作城の敗退を見た承禎は戦意を失って観音寺城を捨て逃亡してしまい、そのまま織田軍は戦うことなく観音寺城へ入城した。
この一件で六角氏の配下だった者たちが相次いで降伏してきたため、信長は人質を提供させたうえで彼らの所領には手を出さないことを約束した。
10月4日、信長は不破光治を美濃の立正寺(立政寺)へ向かわせ義昭を迎えに行かせた。11日に信長は馬を軍を進め、柏原(滋賀県坂田郡)の上菩薩院に陣を構え、翌日には桑実寺へ入った。
13日は瀬田(滋賀県大津市瀬田町)まで進んだが船の手配がつかずに停泊し、翌日(信長公記では16日になっているが著者・太田牛一の書き間違いと思われる)には湖を渡って三井寺の極楽院に到着した。
義昭は光浄院に到着して宿泊していた。そして10月13日、軍を進めた信長は入洛を果たす。義昭も同日に入京し、清水寺で待機した。
入洛した信長は東福寺で陣を構え、15日に柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚ら4人の武将を先頭に立て桂川(京都市南区久世高田)を越え、三好三人衆の一人である岩成友通(三好政権の中枢を牛耳る人物)の勝龍寺城(京都府向日市)を攻めた。
岩成の軍勢は抗戦したが、織田の武将らは強く、50を超える首を討ち取った。首は東福寺に並べられて信長の実検を受けた。16日、岩成友通は力尽きて降伏した。
20日に織田軍は山崎(京都府乙訓郡大山崎町)に陣を構え、先鋒隊を天神山に置いた。芥川城(大阪府高槻市芥川)に立て籠もっていた細川昭元、三好長逸は織田軍の圧力に耐えかねて夜には退却している。
また、篠原長房の支配下にある越水城(兵庫県西宮市)と滝山城(神戸市滝山区)の兵たちも潮が引くように退却し、信長は義昭と合流して芥川城に入城し、本陣とした。
10月22日、信長は池田勝正の拠る池田城(大阪府池田市)を攻め、城の北にある山に陣を構えて遠望した。
攻撃が始まると、家康の配下にある水野忠政の家臣・梶川平左衛門と信長の家臣・魚住隼人が先を争って突入した。しかし、そう簡単には突破できず梶川は腰骨を突かれて戦死し、魚住も負傷して退却した。
激しい攻城戦となり、両軍とも多数の戦死者を出した。信長は、城下に火をかけて町を焼き払った。池田の軍勢は奮戦したが、織田軍の勢いに押されて勝正は降伏した。
織田軍は芥川城に帰還し、五畿(大和国・河内国・和泉国・摂津国・山背城)と、その隣国が信長の支配下となったのである。
芥川城に滞在中、信長のもとへ挨拶に訪れた使者たちが珍物(珍しい品物)を持ってきた。松永久秀(三好三人衆と手を組んで信長に敵対していたが信長に降伏した)は名物中の名物と称される九十九茄子の茶入れを献上し、今井宗久(元・三好衆の配下)も名物と言われる松嶋茶壷と紹鷗茄子の茶入れを信長に贈った。
なかには、源義経が一の谷で着用したと言われる鎧を献上する者もいた。11月3日、義昭は芥川城から六条の本圀寺(京都市山科区)に移った。信長も清水(京都市東山区)に宿泊地を移した。
そして、その後は反抗していた敵らをわずか10日ほどで退散させた信長は、細川昭元の屋敷を義昭の御殿として使うように手配し、祝いの品として太刀と馬を義昭に献上した。
義昭は体操に喜び、信長に三献(酒でもてなす宴であり、礼法)を与え、自らの手で酒をつぎ、刀を贈った。11月7日、義昭は朝廷より宣下を受けて征夷大将軍に就任し、11日には15代目・足利将軍となった。
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