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天下人も恐れた「黒田官兵衛」は”喧嘩”が好きな野望家だった?

画像:如水居士像(崇福寺-所蔵品)

戦国屈指の”軍師”として名の知れた黒田官兵衛。のちの黒田如水であるが、官兵衛は豊臣秀吉の天下統一に大きく貢献した人物の一人と言える。

たとえば、鳥取城の「兵糧攻め」や備中高松城の「水攻め」など策略家であり合戦の名手。しかし、多大な貢献があるにも関わらず、褒美は中津(大分県中津市)に12万石の領土だけ。

ほかの家臣が「あんなに手柄を挙げたのに褒美が少ないですね」と秀吉に訪ねると、「官兵衛に領土を与えすぎると天下取っちゃうからさ。だから、あれぐらいが丁度ええんや」と話したとか。

石田三成や加藤清正と比べても、もっと褒美をもらっていい働きっぷりだと思う。いずれにしろ、秀吉は官兵衛の才能を評価し、その一方でポテンシャルの高さを警戒していたと言える。

秀吉が語る官兵衛という男

戦国時代、腕っぷしの強い武闘派は結構いたが、官兵衛のように”知恵”と”策略”を用いて計画的かつ明確に合戦の方向性を組み立てて戦った武将は数少ない。

毛利家や三好家に囲まれた近江(滋賀)の地(または姫路)で育ち、「今後は織田の時代が来る!」と先を見据えた官兵衛は秀吉の家臣になり、間接的ではあるが織田家に仕えた。

あるとき、大阪で謀反を起こした荒木村重の説得に向かった官兵衛は逆に捕らえられ、牢屋閉じ込められてしまう。これが原因で、官兵衛は片足を引きずる生活を生涯において送ることとなる。


画像:©2014大河ドラマ「軍師 官兵衛」(NHK)

官兵衛の人物像を語るうえで、こんなエピソードもある。秀吉が家来たちにふざけ半分で「俺が死んだら次に天下をとるのは誰だと思う?遠慮なく言ってみろ」と質問した。

家来たちは前田利家や徳川家康などの名を述べたが、秀吉は「違う。今、天下が取れるのは官兵衛だ」と答えた。

これに対して家来たちは「官兵衛は10万石しかない弱小大名。利家さんの加賀100万石や家康さんの255万石には勝ち目がないような気が・・・」と問う。

秀吉は、こう答えた。

「俺は過去の合戦で優柔不断になったり策が尽きたことも多い。そんなとき道を切り開いたのは官兵衛じゃ。あいつに助言を求めると難題も裁断し、見事な策で俺を驚かせた。

あいつは意思が強くて物事を注意深く観察し。したたかで賢い。それにも関わらず、結論を出すまでが早い。まさに天下に愛される男になるだろう。あいつが10年先に生まれていなくて良かったわ」と話した。

この話を人づてに聞いた官兵衛は喜ぶどころか「わが家の災いにつながる」と表情をこわばらせ、丸坊主にしたあと剃髪してスキンヘッドになると官兵衛から「如水」へと改名した。

つまり、「天下をとる気など1ミリもない」という意思表示として頭を丸めたのである。自分の才能のせいで黒田家が標的になっては元も子もないと思ったからである。

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