戦国時代でスカウトしたい「蒲生氏郷」
画像:蒲生氏郷の銅像(ひばり野公園)
武芸に秀で、茶道や俳句など教養も優れた文化人であり、頭が賢く人柄も良い寛容な心の持ち主で、織田信長に仕え、信長の死後は豊臣秀吉の家臣として豊臣家を支えた知将、蒲生氏郷。
生没 | 1556年生まれ 1595年死去 |
出身 | 近江(滋賀県) |
主君 | 織田信長から豊臣秀吉 |
親族 | 父:蒲生賢秀 息子:蒲生秀行 正室:冬姫(信長の娘) |
特徴 | 文武両道 めちゃくちゃ賢い 利休七哲の一人 キリスト教徒 |
蒲生家は鎌倉時代から続く一族であり、氏郷の父である賢秀は近江の守護大名・六角氏の重臣でした。しかし、1568年に織田信長が六角氏を攻め滅ぼすと、賢秀は信長の家臣となりました。
このとき、人質として13歳の氏郷は織田家に差し出されますが、幼いながらも氏郷の風格は堂々としていたそうで、将来を期待した信長は氏郷を可愛がっていたといいます。
また、信長だけではなく織田の家臣らも氏郷に一目置いていたようです。
たとえば、稲葉良通(稲葉一鉄)が合戦の心得や経験談を長い時間話していると、ほとんどの小姓や家来が睡魔に襲われ居眠りするなか、氏郷は「どうなったのですか?」「なぜですか?」「ほかにも聞かせてください」と熱心だったとのこと。
稲葉や織田の家臣らは、近い将来こいつは"本物"になると感心したのでした。
信長も一目置いていた男
画像:蒲生氏郷の居城「会津若松城」
その予感は、氏郷のデビュー戦で現実になります。織田家に来た翌年(1569年)、氏郷は父の賢秀と共に信長の伊勢攻めに従軍し、大河内城の戦いに参戦。13歳の初陣です。
賢秀は氏郷に屈強な部下2名を護衛につけ、「危ないことにならぬよう用心してくれ」と指示。ところが、いざ合戦が始まると護衛は氏郷を見失ってしまい、賢秀は怒り狂って現場はパニック状態。
そこへ氏郷が「討ち取ったぞ!」と敵兵の首を持って帰ってきたんです。知らぬ間に突撃し、賢秀の部隊の中で誰よりも早く首を挙げた氏郷に全員が驚いたそうで、信長は氏郷を褒め称えて打ち鮑を与えたという逸話があります。
そして、氏郷は14歳で信長の娘の冬姫と結婚し、これによって信長の義理の息子になり、織田家に仕えてわずか1年ちょっとでの大出世。かなり可愛がられていたことが分かりますよね。
人質だったはずが、織田家の親族になってしまうわけです。氏郷は蒲生家の領地である近江の日野城へ戻り、織田の家臣として朝倉・浅井との合戦や伊勢一向一揆、長篠の戦いで勇猛ぶりを大いに発揮しました。
本能寺の変で信長が他界すると早い段階で秀吉につくことを選び、しばらくして蒲生家の家督を継ぎ当主となった氏郷は賤ヶ岳の戦いで滝川一益を攻め、小牧長久手の戦いでは怒涛の勢いで敵の城を落としました。
その後も、紀州征伐や九州征伐、北条の小田原城攻めなど秀吉の天下取りに貢献し、最終的には奥州・出羽の領主となり、100万石(会津91万石)の大名になっています。
戦と出世のセンスは抜群で、忠義の武将ではありましたが、それは信長に対する恩義のようなもの。秀吉が天下統一を果たしたあと、氏郷の野心が垣間見える次のようなエピソードがあります。