戦国時代でスカウトしたい「立花宗茂」
画像:立花宗茂の肖像(福巌寺)
東国は本多忠勝、西国は立花宗茂と称されるほど高い評価を受けていた武将で、一言で表すなら欠点が見当たらないくらい優等生。まさに武士道を具現化したような男であり、義に厚く誠実で硬派、そんでもって勇敢な男なんです。
生没 | 1567年生まれ 1642年死去 |
出身 | 豊後(大分) |
主君 | 大友宗麟から大友義統へ、豊臣秀吉から豊臣秀頼へ |
徳川家康から徳川秀忠、最後は徳川家光 | |
親族 | 父:高橋紹運 養父:立花道雪 弟:立花直次 |
正室:誾千代 養子:立花忠茂 | |
特徴 | 忠義の男 硬派 武士道 優等生 欠点がない 人望が厚い |
武芸も達者で腕っぷしが強く、もはや完璧と言っていいかもしれません。宗茂は大友宗麟の重臣・高橋紹運の長男として生まれ、主君の宗麟といえば豊前・豊後・筑後・筑前・日向・肥後の九州6ヶ国の覇者。
宗茂が15歳になると、紹運は大友の家臣である立花道雪から「お前の息子を立花家の跡継ぎにしたい」とお願いされます。そして道雪の娘、誾千代(ぎんちよ)と結婚し、立花家の婿となりました。
婿入りする際、宗茂は実父の紹運から、
「もう俺は親ではないと思え。道雪と俺が敵対したら真っ先にお前が俺を討ちに来い。
もし躊躇するようなことがあれば直ちに自害しろ。」
そう告げられ、切腹する時のためにと刀を授かりました。この刀を宗茂は、生涯において大切にしていたそうです。紹運も道雪も厳格な武士でしたし、そんな二人の父をもった宗茂ですから、当然ながら厳格な男になっていきます。
東に忠勝、西に宗茂あり
画像:歌川芳虎・画「立花宗茂の錦絵」(東京都立図書館)
余談ですが、宗茂は真田幸村や伊達政宗と同い年。二人に比べると派手に取り上げられませんが、知る人ぞ知る名将であることは言うまでもありません。宗茂の武功を語るにあたり、代表的なエピソードが島津義久との一戦。
1585年に養父の立花道雪が病死すると、翌年に薩摩の島津義久が九州統一に向けて大友氏の領土である筑前に侵攻してきました。この頃の宗麟は連敗しており、かなりピンチな状況。
一方の義久は怒涛の勢いで領土を拡大し、やむを得ず宗麟は豊臣秀吉に援軍を頼みます。豊臣軍の到着を待つ間も島津軍が攻め寄せ、次々と大友氏の領土を獲得していくのです。
そして、宗茂の実父である紹運の岩屋城を島津軍が包囲。岩屋城の兵700に対し、島津軍は3万人。紹運は義久から好条件で降伏を促されましたが、拒んで徹底的に抗戦する意思を表示。
島津の兵を3700余り討ち取るという奮戦ぶりでしたが、多勢に無勢で追い詰められ、紹運は切腹しました。岩屋城を落とした島津軍は、ついに宗茂が守る立花山城を包囲します。
宗茂の兵は3000、対する島津軍は岩屋城の戦いで消耗したとはいえ2万を超える軍勢でした。義久は宗茂に降伏を促しましたが、宗茂は「秀吉様から預かっている城なので渡すことは不可能」と断りました。
一斉に島津軍が攻め寄せてくることが予想されましたが、城を包囲するだけで攻撃を仕掛けてきません。しばらくして義久に「豊臣の援軍が到着する」との報告が入り、ひとまず包囲を解いて撤退することを決定。
助かった!と安心するかと思いきや、宗茂は兵を引き連れて撤退する島津軍を追撃し、数百人の敵兵を討ち取るのです。さらに翌日、島津に奪われた筑前の岩屋城・高鳥居城・宝満城へ攻め寄せて奪い返しました。
この働きを知った秀吉は宗茂に感状を送り、「忠義と勇気を兼ね備えた真の漢(おとこ)じゃ」と誉め称えました。その後、秀吉は九州を制圧し、島津義久を降伏させるに至ります。
九州の領土が分配される際、宗茂は武功により秀吉から筑後柳川13万2000石を与えられ、戦国大名の仲間入りを果たしました。
小田原攻めの際には豊臣配下の大名たちが集結する前で秀吉の希望により本多忠勝の隣に並ばされ、「東の国に本多忠勝、西の国は立花宗茂。この二人は東西で唯一無二の天下無双である」と秀吉が大絶賛しました。