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なぜ秀吉は天下をとれたのか?人生最大の分岐点となった「運命の26日間」に迫る

なぜ秀吉は天下をとれたのか?人生最大の分岐点となった「奇跡の26日間」に迫る

なぜ秀吉は天下をとれたのか?人生最大の分岐点となった「奇跡の26日間」に迫る
画像:豊臣秀吉の木像(木彫前田工房)

尾張三英傑の一人に数えられる豊臣秀吉。織田信長に仕え、忠義に尽くし、信長が没したあとは怒涛の勢いで敵対勢力を手中に収めて全国統一を成し遂げました。

そして驚くべきは、ほかの武将や大名に比べると圧倒的に資本やキャリアも劣る秀吉が、わずか8年足らずで天下統一を成し遂げたということ。

有能な家臣に恵まれていたのも理由の一つですが、秀吉が天下をとれた最大の要因は秀吉にとって人生最大の分岐点となる「奇跡の26日間」が重要な鍵を握っています。

天下統一の序章

なぜ秀吉は天下をとれたのか?人生最大の分岐点となった「奇跡の26日間」に迫る
画像:狩野元秀・画「織田信長」(長興寺)

現在の名古屋市中村区で生まれたとされる豊臣秀吉。幼名は木下日吉丸。

のちに藤吉郎へ名を改め、その後、羽柴秀吉へ改名し、正親町天皇から関白の地位と豊臣の姓を賜り、全国統一を成し遂げたあとは関白を息子の秀頼に譲り、太閤と呼ばれるようになりました。

6歳で光明寺に預けられた日吉丸(のちの秀吉)は14歳で元服すると、今川家の家臣で頭陀寺城(静岡県浜松市)の城主・松下之綱に仕官し、この頃「木下藤吉郎」へ名を改めています。

その3年後(1554年)、織田信長に小姓として仕え、1560年に桶狭間の戦いに出兵。翌年、浅野長勝の娘おねと結婚し、1562年には足軽隊100人の大将に任命されました。

以降、美濃攻め(墨俣城の築城)や金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口)、浅井・朝倉の討伐に従軍し、功績により北近江の三郡を与えられ、「羽柴秀吉」に名を改め、長浜城を拝領し、城主となります。

その後も秀吉の活躍ぶりは凄まじく、長篠の戦い(武田信玄との戦い)や信貴山城の戦い(松永久秀の謀反)、播磨攻めの三木合戦や上月城の戦いなど主要な合戦に主力として功績を残しました。

そして、1582年。信長の命を受けて秀吉は清水宗治の守備する高松城を攻略するために備中国(岡山県)に2万の部隊で進軍し、水攻めで高松城を陥落させると今度は毛利軍と対峙することになります。

しかし、吉川元春・小早川隆景・毛利輝元が率いる4万の毛利軍は強力な敵であり、さすがに無理と判断した秀吉は信長に援軍を要請しました。

要請を受けた信長は、丹波から明智光秀の軍勢を向かわせると返答。ほっとしたのも束の間。援軍の到着を待っている秀吉に、思いもよらぬショッキングなニュースが飛び込んでくるのです。

ここから秀吉の人生を大きく変える"運命の一ヶ月"が始まることになります。

天下統一への第一歩

なぜ秀吉は天下をとれたのか?人生最大の分岐点となった「奇跡の26日間」に迫る
画像:明智光秀(本徳寺)

今か今かと明智の援軍を待つ秀吉に「信長が本能寺で暗殺された」という報告が届きます。しかも謀反を起こした人物が明智光秀と知り、さらに耳を疑ってしまうような大事件。

なぜなら光秀は織田の家臣の中でも一、二位を争うほど信長に信頼されていた男だったからです。すぐさま秀吉は、毛利が信長の死を知る前に輝元と和議を結んで毛利軍との戦いを中止しました。

そして、全軍を引き連れて岡山県から京都に向かい、山崎(大阪府北中部と兵庫県南東部の境)で明智軍を討伐。後日、光秀も討ち取られ、秀吉は信長の敵討ちを果たしたわけです。

これが世にいう「中国大返し」からの「山崎の戦い」。何が凄いって、中国大返しは謎だらけで"光秀の謀反を事前に知っていなかった"とすれば秀吉の行動は神がかっているんです。

まず、信長が本能寺で討たれたのが1582年6月21日、秀吉が信長の死を知ったのが翌日で、山崎で明智の軍勢を壊滅させたのが7月2日。

岡山(現在の岡山駅)から山崎(大阪の島本町)まで驚異的なスピードで移動したことになります。

距離にして約210キロメートル。新幹線や車がある現代なら驚くことではありませんが、当時で考えると簡単には説明がつかない話なんですよね。

その1 移動スピードが驚異的すぎる

秀吉に信長死去の知らせが届いたのが6月22日で毛利と和議を結んだのが23日、岡山を出発したのが25日とされているので、実質的に8日で岡山から山崎まで移動しています。

毛利氏との戦いで疲労が癒えていない兵たち(2万~4万人)が徒歩で1日26キロメートルの距離を移動し続け(ほぼ毎日がフルマラソン状態)、山崎に到着すると休む間もなく明智軍と戦って勝利!

って・・・かなりタフですよね。

その2 信長が死んだことを知るのが早すぎる

さらに、他の武将や大名が知る前に一早く信長死去の情報を聞きつけた秀吉。遠く離れた本能寺(京都)での事件を翌日に知ることは、当時ではミラクルとしか言いようがありません。

210キロメートルの距離を約1日で移動して知らせないといけないわけですから、特異なことなんです。ちなみに、毛利方に信長死去の知らせが届いたのは秀吉が撤退した翌々日のことでした。

その3 食料の調達が用意周到すぎる

移動するにしても8日分の食料が必要なわけで、そんな大荷物をもって驚異的なスピードで進軍するのは不可能。では、どうしたのか。

なんと、行く先々の村で食料を補給したのです。

つまり、岡山から大阪の間にある村の人たちに「ここを秀吉の軍が通るから食料を用意しておくように」と事前に連絡していたことになります。

そんな時間が、どこにあったのか・・・。一説によると、石田三成が段取りしたという話もありますね。

その4 たった1日で和議が成立したのは何故?

そして、岡山を離れる上で最も問題になるのが毛利軍の存在。大軍が大移動するとなれば当然ながら邪魔されるでしょうし、和議を結んで堂々と撤退したほうがいいのは当たり前。

でも、さっきまで睨み合っていた敵と1日で和議を成立させるのは至難の業。本願寺の件や中国攻めなど織田と毛利の対立が激化している最中に、段取りなく休戦を成立させたのは神がかっています。

光秀の裏をかいた秀吉

なぜ秀吉は天下をとれたのか?人生最大の分岐点となった「奇跡の26日間」に迫る
画像:堀秀政(長慶寺)

光秀が本能寺の襲撃を決行する上での勝算として、織田家の戦力が地方に出陣していて手薄になっていたことが考えられます。

光秀は、織田の武将らが信長の死を知ったところで、すぐには京都へ来れないと予測していたわけです。秀吉も岡山に出陣していたので、光秀にすれば不安要素ではなかったでしょう。

しかし、遠方にいたはずの秀吉が一番乗りで戻ってきたという予想外の展開。ここまでくると考えられる状況は、「光秀に謀反の兆候があることを秀吉は気づいていた」のではないでしょうか。

つまり、秀吉は光秀が信長を討つ日が来ることを想定しており、もしも謀反が起きたら迅速に対応できるプランを組み立てていたということ。

そのためには、並みならぬ情報収集と準備が必要になります。まず秀吉は、岡山に出陣する時点で光秀が信長に敵意を抱いていたことを既に知っていた可能性が高いです。

信長が信頼していた小姓の一人に堀秀政という青年がいますが、もともと秀政は13歳まで秀吉に仕えており、容姿端麗で賢かったので秀吉が信長に紹介したという逸話もあります。

秀政が織田家へ仕官する前に秀吉が、「信長様に関する情報を私に報告しなさい」と秀政に命じていたとすれば、信長の動きを把握するのは難しいことではなかったでしょう。

信長が少数で本能寺へ行くことも、信長と光秀の関係が日に日に悪化していくことも、光秀の信長に対する兆候も、もしかすると秀吉の耳に入っていたのかもしれません。

本能寺の変が起きたとき、信長が可愛がっていた秀政は秀吉の備中攻めに参加して岡山にいたというのも腑に落ちません。

これは信長の指示で秀吉の行動を監視するため(目付役)と言われていますが、信長の死後から直ぐに秀吉に仕えていることを考えても、秀吉と秀政は密接な関係を築いていたのではないでしょうか。

また、人たらしの天才と称されるほど人脈づくりに長けていた秀吉ですから、この頃には縦にも横にも幅広いコネクションを構築していたはずです。

秀吉は、そうしたコネクションから得る情報を分析し、正しく判断し、行動に活かせる能力(インテリジェンス能力)が高い人物であったことは様々な専門家や研究家も提唱しています。

綿密な下準備によって"万が一"の事態が起きても迅速に対応できるプランを事前に組み立てていた秀吉は、まんまと光秀の裏をかいて奇襲することに成功したのかもしれません。

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