信長公記・4巻その2 「比叡山の焼き討ち」
画像:比叡山延暦寺大霊園総本堂
比叡山の焼き討ち
1971年9月30日(元亀2年)、織田軍は近江の比叡山(京都市と滋賀県大津市にまたがる天台宗の総本山)の麓に集結した。
1970年10月(元亀元年)に野田城と福島城(いずれも大阪市福島区)を包囲して攻め落とす寸前まで追い詰めたとき、朝倉・浅井の連合軍が織田の部隊が陣を構えていた坂本口(滋賀県大津市下阪本)に攻めてきた。
このとき、信長は野田(大阪市福島区)に陣を構えていたが、急いで陣を引き払って近江に進軍した。
10月23日、信長は逢坂を越えて坂本口に陣を構えていた朝倉・浅井の本隊に攻撃を仕掛けようとしたが、織田軍の来襲を知った敵兵らは比叡山へ退却し、新たに蜂が峰、青山、局笠山に陣を構えたのである。
信長は延暦寺(比叡山)の僧侶10数名を呼び寄せ、「織田に加勢するなら奪取していた山門の領土を返還する」と伝え、「出家した身ならば片方のみを贔屓(ひいき)するのは道理に反する」と説得し、約束の事柄を稲葉一鉄が朱印状に書き記した。
そのうえで信長は、「もし断るなら根本中堂や寺内の21社など焼き払う」と念押しした。しかし、延暦寺の僧侶らは勧告を聞き入れず、朝倉・浅井に加勢したのである。
そして一年が経ち、信長は山門(延暦寺)への制裁を決定した。この頃、延暦寺の僧たちは修行を怠り、出家の身でありながら肉を食らって女遊びをし、挙句の果てには金銀に目がくらんで朝倉・浅井に加勢するという行為に及んだ。
しかし、信長は勧告を無視した延暦寺を直ぐに攻撃しようとはしなかった。しばらく様子を見て、態度を改める機会を与えていた。一年が過ぎても延暦寺の僧たちは行いを改めることなく、好き勝手やっていた。
そこで、この度、延暦寺への制裁を決行するに至ったのである。信長は家臣に指示して軍を比叡山に登らせ、忠告したとおりに根本中堂や寺内の21社をはじめ、霊園や経巻(経文を記した巻物)など一切を焼き払わせた。
一日にして延暦寺は焼け野原となった。麓では逃げ惑う老若男女が八王子山(滋賀県大津市)に逃げ込み、日吉大社奥宮に逃げ込んだ。しかし、信長は軍に追撃を指示し、社内にいる人々を次々と斬り殺した。
織田の兵らは僧のみならず子供や女であっても関係なく首を跳ね、信長の御前に差し出した。
画像:比叡山延暦寺「根本中堂」
なかには生け捕りにされた高名な僧侶や女、子供もおり、それらも信長の御前に差し出された。そのとき、捕らえられた者たちは口々に「悪行を犯した僧は処罰されて当然ですが私たちは助けてください」と懇願した。
しかし、その願いを信長は聞き入れず、全員の首を斬り落とした。さすがに惨忍であり、見てられなかった。こうして比叡山の焼き討ちは完了し、麓や延暦寺には数戦の死体が転がっていた。この世のものとは思えない光景だった。
焼き討ち後、(滋賀県滋賀郡志賀町)は明智光秀に与えられ、坂本(大津市下阪本)に城(坂本城)を築いた。信長は10月8日に岐阜城へ帰還した。
そして、信長は丹羽長秀と河尻秀隆に高宮右京亮を佐和山城に引き寄せて殺害するよう指示した。
9日、高宮は成敗された。雨宮は浅井家の家臣だったが姉川の合戦の際、信長に降伏して家臣となったが、1570年の野田城・福島城の戦いにおいて浅井に内通して一揆を誘導し、信長を裏切ったのである。
この度の成敗は、その報いであった。
禁中の修復と関所の廃止
1569年(永禄12年)に信長は禁中(皇居)の修復を村井貞勝と日乗上人を奉行に任命して開始した。それから3年の今年(元亀2年)、修復が完了した。
清涼殿、紫宸殿、昭陽舎、内侍所など禁中の隅々まで丁寧に造り上げられた。
さらに信長は、禁中の財力を低下させないように、京都の外から納められた米を京都の市民に貸し付け、利息や収益の一部を朝廷の収入にするという政策を講じた。
また、信長は領内にある全ての関所の関銭(関所を通る際に支払う金)を廃止した。