各地で行われた関ケ原の戦い
画像:徳川家康公之肖像画(江戸東京博物館)
<京都>
●伏見城の戦い 1600年8月26日~9月8日
東軍・・・鳥居元忠 西軍・・・宇喜多秀家、小早川秀秋
●田辺城の戦い 1600年8月27日~10月12日
東軍・・・細川幽斎 西軍・・・小野木公郷
●福知山城の戦い 1600年10月29日
東軍・・・細川忠興 西軍・・・小野木公郷
<石川>
●大聖寺城の戦い、浅井畷の戦い 1600年9月7日~9月10日
東軍・・・前田利長、前田利政 西軍・・山口宗永
<熊本>
●石ノ瀬口の戦い、宇土城の戦い 1600年9月19日~10月23日
東軍・・・加藤清正 西軍・・・小西隼人
<岐阜>
●合渡川の合戦 1600年9月28日~9月30日
東軍・・・黒田長政、藤堂高虎 西軍・・・舞兵庫
●岐阜城の戦い 1600年9月29日~9月30日
東軍・・・福島正則、池田輝政 西軍・・・織田秀信
●杭瀬川の合戦 1600年10月20日
東軍・・・中村一栄、有馬豊氏 西軍・・・島左近、明石全登
<三重>
●安濃津城の戦い 1600年10月1日~10月2日
東軍・・・富田信高 西軍・・・毛利秀元、長宗我部盛親
●鳥羽城の戦い 1600年10月19日
東軍・・・九鬼守隆 西軍・・・九鬼嘉隆
<長野>
●上田城の戦い 1600年10月11日~10月16日
東軍・・・徳川秀忠、本多正信 西軍・・・真田昌幸、真田幸村
<滋賀>
●大津城の戦い 1600年10月15日~10月21日
東軍・・・京極高次 西軍・・・毛利元康、立花宗茂
●佐和山城の戦い 1600年10月23日
東軍・・・田中吉政 西軍・・・石田正澄
<大分>
●石垣原の合戦 1600年10月19日
東軍・・・黒田如水(官兵衛)、松井康之 西軍・・・大友義統、吉弘統幸
<関ケ原町>
●(本戦)岐阜県関ケ原町で行われた合戦 1600年10月21日
西軍85000の兵力 東軍88000の兵力
<山形>
●長谷堂の合戦 1600年10月21日~11月17日
東軍・・・最上義光、志村光安 西軍・・・直江兼続、上杉景勝、前田慶次
●三津浜の合戦・・・愛媛県(1600年10月22日)
東軍 加藤忠明 西軍 村上武吉
<鳥取>
●鳥取城の戦い 1600年11月10日
東軍・・・亀井茲矩 西軍・・・宮部長熙
<福島>
●松川の合戦 1600年11月11日
東軍・・・伊達政宗 西軍・・・本庄繁長
なぜ直江状は必要だった?
画像:直江兼続之肖像画(米沢市上杉博物館)
関ケ原の戦いは「会津征伐」が事の始まりですが、家康が会津征伐を決定するにあたり発端となった出来事が「直江状」です。上杉家の家臣、直江兼続が家康に送った書状になります。
直江状が発端となり、家康は会津征伐=上杉家への攻撃を決定して会津(福島)に出陣するわけですが、なぜ兼続は直江状を家康に送ったのでしょうか。
これは三成の作戦でした。家康を討伐したいと考えていた三成は拠点である大阪城に西軍の大名や兵を集合させたかったのですが、家康が京都にいたので軽率な行動ができません。
そこで三成は、家康を関西から離すために直江状で挑発し、会津へと出陣させたと言われています。では、どんな内容が直江状に書かれていたかというと・・・
まず、兼続は親分の上杉景勝に許可をもらって福島で道路の整備や城のリフォーム、兵を集めたり堂々と武器を仕入れたり、あからさまに怪しい動きに取り掛かったのです。これも作戦のうち。
1600年5月ごろ、上杉家の動きは家康の耳にも届き、ちょっとイラっとした家康は「ねぇ景勝くん、なんで急に改築とか武器とか集めているの?京都に来て説明してよ」と上杉宛に手紙を出しました。
待ってました!といわんばかりに、さっそく景勝は家康に手紙で返信しました。
色々とやることがあるので、行けそうもありません。用があるなら、そちらが来てくださいよ。あっ、それから、武器を集めているのは趣味です。ぼく、コレクターなんですよ。
あと、橋とか道路とか城をリフォームするのはダメなんですか??地域貢献のつもりなのに文句言われる意味がわからないんですけど(笑)工事の人員として暇な兵に求人かけて手伝わしているんですよねー。
最後に、ウワサや憶測で文句つけてきたらダメですよ。まるで天下人のようなことを言いますね。どんな立場で仰っているのかサッパリです。まっ、暇だったら、こっちに来て確かめてみたらどうですか??
かなり原文から脚色していますが、つまり、家康を挑発したかったわけです。作戦は見事に成功し、家康は兵を挙げて上杉討伐のために会津へと出陣するのでした。
西軍、大阪で挙兵する
画像:大阪城
家康は会津征伐に向けて一部の大名に声をかけます。家康の動きを知った三成も西軍の大名たちに書状を出し、家康討伐の準備として大阪城に集結させました。
ということで今回はここまで。Vol.1では豊臣政権の始まりと崩壊、Vol.2は家康と三成の対立について紹介しましたが、Vol.3では、いよいよ各地で始まった関ケ原の戦いと本戦についてチェックしていきたいと思います。
Vol.3はこちら(記事公開後リンクされます)↓
なぜ豊臣家は滅びたのか?戦国時代の終末期「豊臣政権の崩壊」と「関ケ原の戦い」
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