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信長公記・首巻その8 「斎藤道三の死」

長良川の合戦

道三には長男の義龍、次男に孫四郎、三男に喜平次の息子がいたが、いずれも稲葉山城に住まわせていた。道三は義龍を愚か者と蔑んで弟の二人を可愛がり、とくに喜平次への溺愛ぶりは異常であった。

官職(朝廷の役人)を真似て、しばらくして喜平次には一色右兵衛太輔(将軍が与える高名な役職)と名乗らせた。それほど丁寧に可愛がったということである。

当然ながら義龍は腹を立てるし、ひねくれていった。そして、1555年10月(天文24年)に病を患ったと嘘をついて部屋に引きこもってしまう。22日には、昔、道三が住んでいた稲葉山の麓にある道三の別宅に移った。

義龍は叔父の長井道利を二人の弟のもとへ行かせ、道利は「義龍から相談したいことがあるらしいから稲葉山の麓(道三の別宅)に行ってくれないか」と二人の弟に伝えた。

道利は義龍の企みを知っていたが、孫四郎と喜平次を連れて義龍のもとへ行った。道利は義龍の部屋に入る前に刀を外して置いた。その姿を見た二人の弟も伯父を真似て刀を置いてから部屋に入った。

そして義龍は二人の弟に酒を飲ませ、酔わせた隙に日根野弘就に襲わせ、二人の弟を殺害した。すぐさま義龍は道三のもとへ通達係を走らせて二人の弟を殺したと伝えた。事実上の宣戦布告である。

道三は驚き腹を立て、急いで兵を挙げると稲葉山城の城下を焼き、大桑城に入って義龍の討伐に備えた。

1556年5月26日(弘治2年)、道三は稲葉山(岐阜市)の鷺山の高所に陣を構えた。信長も援護するために出陣し(道三の娘・濃姫が信長の嫁で道三とは個人的に同盟関係であった)、木曽川と飛騨川を越えて大良(岐阜県鳥羽市)の東蔵坊に入った。

28日に義龍は進軍し、道三は鷺山を降りて長良川で両軍は激突した。合戦は義龍の先鋒・竹腰道塵の突撃で始まり、竹腰隊は密集陣形を組んで長良川を渡り、道三の本陣を襲撃した。

激戦となったが道三は竹腰隊を退却させ、このときに道塵を討ち取っている。竹腰隊の敗退を見た義龍は、主軍を率いて長良川を越え、陣形を整えた。

義龍の家来・長屋甚右衛門が柴田角内と一騎打ちし、長屋が敗れたのを合図に両軍とも全軍が突撃した。乱戦となり、兵数が少ないながらも道三の軍勢は奮戦したが、次第に兵が減り、ついに道三の目の前まで義龍の軍勢が迫った。

長井忠左衛門が突進して道三に襲い掛かり、もみ合っていたところへ義龍の家来・小真木源太が走り寄ってきて道三の脛を斬り、そのまま倒れた道三の首を斬った。

合戦後、首実検が行われた。義龍の前に兵らが討ち取った首が並べられ、やがて道三の首が運ばれくると義龍は「俺が不甲斐ないばかりに、こんな惨事を招いた」と嘆いて、いずれ出家することを決意した。

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