ところで朱子学って何?
画像:朱熹の像(白鹿洞書院)
12世紀の中国(宗の時代)に程頤(ていい)と朱熹(しゅき)という儒学者がいました。
春秋時代に成立した儒学は孔子を祖とする倫理観であり、彼らは儒学に宇宙や社会といった概念を加え、進化(発展)させたものが朱子学とされています。
ただし、朱子学と呼んでいたのは日本だけで、中国では程朱学と呼ばれていました。
儒学を簡潔にまとめると「人間同士が殺し合わない環境をつくるためには他人への愛と守るべき規則が必要だ」という教えが根本にあります。
儒学者である程頤は「愛とは何か?」を研究し、それを朱熹が引き継ぎ、朱子学が生まれました。
朱子学の基本原理は、「この世にある全ての事柄や物質(万物)は"気"と"理"の2つからできている」というもの。これを「理気二元論」と言います。
ここで言う「理」とは「決められた法則(天の秩序)」を示し、「気」とは「すべての源」を表しています。
「気」は常に動いており、気の動きが小さいときを「陰」と呼び、大きい動きのときを「陽」と呼ぶそうです。
陰と陽が組み合わさって「五行(木・火・土・金・水)」が生まれ、それら五行が組み合わさって様々な物質や事柄が生み出されると説いています。
万物を生み出す「陰・陽・五行(気)」は「理」に基づき動いている、と説いているのが理気二元論です。
さらに朱熹は、理気二元論から「性即理説」を導き出しました。
ここで言う「性」は「無の状態」のこと。
性は「情」に変わり、情は「気」と同じであると説きました。
すなわち、性と情は人間の「心」を表しているのです。
そして、情がバランスを崩せば「欲」に変わり、欲は「害」を生むと説き、性即理説を要約すると次のようになります。
「欲」は心を乱す「害」であり、「情」をコントロールし、日々「性」に戻す努力が必要である。
こんな難しい学問を幕府の役人は猛勉強していたんですね・・・。
朱子学の伝来
画像:湯島聖堂
13世紀頃の中国では朱子学が役人の採用試験となり、明の時代になると国家が認定する学問となり、中国全土に広まっていきます。
本来、朱子学は社会や人間の平穏を保つための教えでしたが、いつしか国家を統制するための思想として統治者たちが朱子学を用いるようになりました。
また、朱子学が広がっていく過程で他の学問が排除され、思想統制の時代になっていくのです。
やがて、日本にも鎌倉時代に朱子学が伝来し、五山を中心とする僧たちが学ぶようになります。後醍醐天皇や楠木正成も朱子学を熱心に学んだそうです。
そして、江戸時代に入ると家康は林羅山を召し抱え、朱子学の思想を幕藩体制の基盤づくりに応用し、徳川家光の代になると幕府認定の学問となりました。
徳川綱吉(5代将軍)は羅山の私塾・先聖殿を基に湯島聖堂を創設し、徳川家斉(11代将軍)の時代には松平定信が寛政異学の禁を発し、幕府役人の採用試験を朱子学に限定したという流れです。
完全に中国の思想統制を模範にしていますよね。
しかし、黒船来航をきっかけに幕末へ入ると尊皇派(天皇を中心とした国家を作りたい派)の勢いが強くなり、明治維新と共に朱子学による思想統制は排除されます。
さて、今回は幕府の必修科目と題し、江戸時代における朱子学の歴史をおさらいしました。
徳川幕府と朱子学には密接な関係があり、幕府の統制を保つために朱子学の思想が重要な役割を果たしていたことをご理解いただけたのではないでしょうか。
ぜひ、参考になれば幸いです。