どのように変わっていったのか
画像:蘇我氏とは何か(別冊宝島)
次のポイントは、「推古天皇」から「天智天皇」へ、そして「天武天皇」から「桓武天皇」という流れ。その背景にある「蘇我氏」から「藤原氏」へという過程も重要なポイントです。
ヤマト王権の中でも特に有力だった豪族が蘇我氏でした。538年に仏教が伝来すると、仏教に賛成の蘇我氏と仏教に反対の物部氏が対立します。
蘇我氏は物部氏を滅ぼし、593年に推古天皇を即位させ、推古天皇は聖徳太子を摂政(側近)に任命し、さらに皇太子(厩戸皇子)として扱いました。
トップのいないヤマト王権から大王(まだ天皇という呼称がない)が治める大和朝廷へと移行し、飛鳥時代に入ります。ちなみに、飛鳥という地域(現在の明日香村)に都を築いたから飛鳥時代。
実質的に政治を操っていたのは聖徳太子と蘇我氏で、すなわち、摂政政治といわれるものです。
<蘇我氏の終焉>
イケイケだった蘇我氏も645年に中大兄皇子と中臣鎌足に敗北し、蘇我氏の独裁政権は終わりを迎えます。(大化の改新の始まり)
中大兄皇子は天智天皇となり、中臣鎌足といえば藤原氏の始祖。天智天皇の政治もイケイケで、好感度は低かったようです。天智天皇の死後、皇位継承を争って672年に勃発したのが壬申の乱。
天智天皇の息子・大友皇子と天智天皇の弟・大海人皇子が戦い、勝利した大海人皇子が40代目の天皇に即位し、天武天皇となりました。
この頃に国号が倭から「日本」へ変わり、大王ではなく「天皇」と呼ばれるようになったとされていますが、どちらも正確な年号はわかっていません。
<藤原氏の繁栄>
画像:藤原不比等(菊池容斎・画)
686年に天武天皇が崩御し、690年に皇位継承した持統天皇(41代目)は694年に都を藤原京(奈良県橿原市)へ移行。42代目に文武天皇が即位した頃には、いよいよ藤原氏が基盤を築き始めます。
藤原不比等(鎌足の息子)は自分の娘を天皇と結婚させることで権力を高めていき、長女の宮子が文武天皇と結婚した以降、ほとんどの天皇の正妃(嫁)は藤原氏です。
710年に始まった奈良時代(平城時代)は凶作による飢饉や天然痘(感染症)、大地震など災い続きで聖武天皇(45代目)は鎮護国家の成立に向けて国分寺や大仏の造営に注力しました。
※鎮護国家とは「仏教には国を守護・安定させる力がある」という思想のもと築かれる国家
<日本列島の原点>
仏教や権力争いなどで混沌とした奈良時代は桓武天皇(50代目)の即位(781年)をもって終わり、784年には平安京に都が置かれて平安時代が始まります。
桓武天皇から征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は、北方の蝦夷(現在の東北地方)に進軍し、803年に蝦夷の阿弖流為(アテルイ)を降伏させ、この頃に東北までの統一が完了したようです。
100の小国が乱立していた弥生時代に始まり、九州・四国・中国・近畿・中部・関東までを統一したヤマト王権を経て、平安時代に東北の制圧が完了した流れになります。
1457年には室町幕府が蝦夷(現在の北海道)を攻めてアイヌ民族と戦い、江戸時代に蠣崎氏(のちの松前氏)が蝦夷の勢力をまとめて統一が完了すると、ようやく今の日本列島が完成しました。
その間、およそ1200年あまり。日本列島が完成して、まだ400年ちょっとなんですね。
- 紀元前800年~西暦400年頃まで100の小国が乱立していた(古代史)
- およそ西暦400年頃にヤマト王権が九州から関東までを統一(古代史)
- 西暦1600年あたりに蠣崎氏が蝦夷の勢力をまとめて北海道が日本列島になった(近代史)
- 日本列島の成立1600年-現在2019年=419年
天皇に仕える"影"の権力者たち
画像:法隆寺の五重塔
ザクっと古代の日本について「どのような国だったのか」「どのように変わっていったのか」をおさらいしましたが、どの時代の天皇にも"頼りになる氏族"がそばにいました。
推古天皇に仕えた蘇我氏、天智天皇には中臣鎌足(藤原氏)がいて、それら氏族は表向きでは側近ですが、実質的には"影の権力者"であったことがわかります。
なぜなら彼らは、時代のターニングポイントにおいてキーパーソンになっているからです。
仏教を取り入れて中央政権国家の思想を抱き、推古天皇を即位させた蘇我氏は大化の改新まで政権を操り、その蘇我氏を排除して天智天皇の即位に貢献した藤原氏は、のちに日本最大の氏族として摂政にまで昇格します。
また、奈良時代になると藤原氏の存続を脅かす道鏡という僧侶が出現し、古墳時代から平安時代に至るまでの古代史は、天皇の側近たちによる権力争いが時代の転換に大きな影響を与えています。
後編では、蘇我氏、藤原氏、道鏡、彼らが時代に与えた影響を確認していきましょう。
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蘇我氏・藤原氏・道教を起点にすれば古代史は10倍おもしろくなる!(後編)