蘇我氏・藤原氏・道教を起点にすれば古代史は10倍おもしろくなる!(後編)
前編では、古代の日本は「どのような国だったのか」「どのように変わっていったのか」、そして「どのようなキーパーソンが時代に影響を与えたのか」について要点をお話ししました。
そうした要点を踏まえたうえで、今回は古墳時代から平安時代に至るまでの古代史においてキーパーソンとなった「蘇我氏」「藤原氏」「道鏡」の歴史をおさらいしていきましょう。
蘇我氏の栄光と後退
画像:蘇我氏とは何か(別冊宝島)
一説によると蘇我氏の始祖は孝元天皇(8代目)とされ、天皇の末裔ということになりますが、諸説も多く曖昧さが回避できないので系譜については割愛します。
蘇我氏の名前が古代史で大々的に登場するのは蘇我氏5代目の蘇我稲目です。すでに有力な豪族だった稲目はヤマト王権の中でもトップ3に君臨していました。
そして、蘇我氏に並ぶ豪族が物部氏と大伴氏。やがて、大伴金村が失脚して力を失うと、物部尾輿と稲目がヤマト王権の二大勢力となります。
<物部氏との対立>
西暦538年に百済(古代中国にあった国の一つ)から仏教が伝来し、稲目と尾輿は「仏教を受け入れるか、拒否するか」という問題で対立します。
この頃の仏教は権力の象徴として権威的な意味をもっており、仏教を頂点に国家を統治すると大王(国主)を中心とした権力体制が構築しやすいと考えられていたようです。
つまり、「権力で統治する国をつくる仕組み」として仏教を政治に取り入れるか、取り入れないかが争点になったわけです。
現状維持を主張する尾輿に対し、「改革して進化しなければ弱小国のままだ」と仏教を取り入れることに賛成の稲目。その対立は彼らの子供たちに引き継がれます。
<蘇我氏の実権掌握>
画像:物部守屋(菊池容斎・画)
稲目の息子である蘇我馬子は587年に尾輿の息子の物部守屋を討ち殺し、翌年、明日香村に法興寺(飛鳥寺)を建立し、593年には崇峻天皇(32代目)を暗殺し、実の姉の娘を天皇に即位させました。
33代目の天皇となる推古天皇です。馬子の姉(塩堅媛)は欽明天皇の正妃であり、推古天皇は馬子から見れば姪っ子。次第に、大和朝廷の実権は蘇我氏が掌握するようになります。
表向きでは推古天皇が聖徳太子を摂政に任命し、皇太子(厩戸皇子)として扱い、厩戸皇子が政治を取り行ったとされていますが、実際は馬子の支配が強かったようです。
このあたり(587年~593年)がヤマト王権から大和朝廷(推古朝)に移行した分岐点で、古墳時代から飛鳥時代に変わった節目と考えられます。
<入鹿と蝦夷の終焉>
馬子の没後も蘇我氏の勢いは止まらず、馬子の息子である蘇我蝦夷は舒明天皇(34代目)や斉明天皇(35代目)を無礼に扱い、蝦夷の息子である蘇我入鹿は権力を牛耳ってやりたい放題。
親子三代にわたって大和朝廷を私物化していたとされ、飛ぶ鳥を落とす勢いの蘇我氏でしたが、皇族や豪族の反感を買い、645年に始まる大化の改新で終わりを迎えます。
中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が入鹿を暗殺し、蝦夷は自害。蘇我氏の独裁政権は消滅しました。
<平安時代まで続いた蘇我氏>
大化の改新で蘇我氏が滅亡したと認識している人も多いようですが滅びたのは蝦夷と入鹿であり、馬子の二男(蘇我倉麻呂)から続く子孫は平安時代の初期まで存続しています。
大化の改新後も朝廷に仕えたり皇族と姻戚を結んだり、蘇我倉麻呂の娘・蘇我連子から続く子孫は朝廷内で一定の地位を保っていたとされており、完全に蘇我氏の血統が途絶えたのは平安時代の初期。
ちなみに、中臣鎌足が入鹿を暗殺する際に協力したのは蘇我倉麻呂の息子の蘇我石川麻呂でした。入鹿とは従兄弟の関係でしたが、結果をみれば蘇我氏の血筋を守った陰の功労者といえます。