藤原氏の栄光と後退
画像:藤原不比等(菊池容斎・画)
日本史において最大の氏族とされる藤原氏。始祖は大化の改新で蘇我入鹿を暗殺した中臣鎌足です。
藤原という姓は鎌足が没したあとに朝廷から賜ったもので、鎌足の子孫から藤原の姓を名乗ることになります。天皇から姓を授かることは名誉であり、勲章のようなもの。
入鹿を暗殺するにあたり鎌足は、次の皇位継承者として中大兄皇子を擁立しました。さらに、入鹿に不満を抱いていた石川麻呂(蘇我馬子の孫)を仲間に引き入れ、645年に暗殺を成功させます。
<藤原氏の原点>
鎌足は入鹿と蝦夷を滅ぼした功績が認められ内臣(天皇の側近)に昇格し、主に唐(古代中国)や新羅(古代の朝鮮半島にあった国)との外交を任せられ、軍事における指揮権も与えられました。
668年に中大兄皇子(天智天皇)が38代目の天皇に即位すると、669年に内大臣に任命されますが、その翌日に他界しました。
鎌足の没後、父親とは違う"路線"で藤原氏の基盤を築いたのが息子の藤原不比等でした。
不比等は官僚として持統天皇(41代目)に仕え、文武天皇(42代目)が皇位継承すると娘の宮子を文武天皇と結婚させ、皇族と強いつながりをもった不比等は朝廷の政務に加わるようになります。
<天皇家と藤原氏>
宮子が首皇子(のちの聖武天皇)を産むと、今度は娘の光明子を後宮(天皇や皇后が住む部屋)に預け、聖武天皇と結婚させるルートを確保しました。
これ以降、ほとんどの天皇の正妃は藤原氏の娘となり、天皇家と姻戚を結んで権力を強める不比等の方法は、時代が変わっても藤原氏の子孫らに受け継がれていったのです。
710年、平城京に都が置かれて奈良時代に移行し、藤原4兄弟(不比等の息子の武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は左大臣の長屋王(天武天皇の孫)と対立し始めます。
長屋王は光明子が皇后になる(聖武天皇と結婚する)のを反対しており、藤原4兄弟にとって厄介な存在でした。そして、724年に聖武天皇(45代目)が皇位継承。
藤原4兄弟は「長屋王が謀反を企んでいる」と騒ぎ立て、長屋王に無実の罪を被せることに成功します。失脚した長屋王は自害し、729年に光明子は皇后となりました。
<光明皇后と鎮護国家>
画像:光明皇后(菱田春草・画)
光明皇后の成立と共に元号が天平へと変わり、不比等の息子たちが権力を牛耳るかと思われた矢先の天平4年頃から凶作による飢饉が目立ち始め、情勢の雲行きが怪しくなっていきます。
さらに翌年は大地震も発生し、天平7年には天然痘が流行り病になるなど国内は混乱を増していくのです。なお、藤原4兄弟も天然痘を患って737年に4人すべて病死しています。
不穏な世相を打破するために、聖武天皇は「国分寺の建立」や「大仏の造立」を決意。仏教の力で災いを取り払おうと考え、鎮護国家の成立に向けて日本は大きく動き始めます。
※鎮護国家とは「仏教には国を守護・安定させる力がある」という思想のもと築かれる国家
一説によると、聖武天皇は虚弱体質で内向的だったそうで、聖武天皇が施行したとされる国分寺や東大寺の造営などは光明皇后の助言による影響が大きかったそうです。
光明皇后が仏教に入れ込んでいた(かなり信仰心が強かった)という背景もあるとされています。
<藤原氏の存続を脅かす道鏡>
天武天皇の孫にあたる淳仁天皇(47代目)の即位に貢献した藤原仲麻呂(武智麻呂の息子)は、惠美押勝という名を賜り、朝廷における藤原氏の権力は確立されていました。
しかし、孝謙天皇(46代目)に気に入られていた僧侶の道鏡と対立するようになり、武力抗争に発展。惠美押勝は挙兵して道鏡を討とうとしましたが敗北し、746年に他界します。
淳仁天皇は称徳天皇(48代目)に皇位を譲り、道鏡は称徳天皇から太政大臣禅師と法皇(皇太子に匹敵)の称号を与えられ、ついに藤原氏と同格の権力を有するようになるのです。
称徳天皇には子供がいなかったので天皇家や藤原氏に愛着がなかったらしく、宇佐八幡の神託(宇佐八幡の神のお告げ)と称して道鏡に皇位を継承させようとしていました。
出世した僧侶が皇位を継承するなんて前代未聞の大事件であり、和気清麻呂ら廷臣が中心となって猛反発。道鏡の皇位継承が実現しないまま称徳天皇は770年に他界しました。
※孝謙天皇と称徳天皇は同一人物であり、孝謙天皇が重祚して称徳天皇となった。重祚(ちょうそ)とは歴代の天皇が再び即位すること
<藤原氏北家が摂政となる>
画像:藤原道長(菊池容斎・画)
奈良時代に入ると、藤原氏は北家(藤原四家の一つ。藤原4兄弟の一人である房前を初代とする藤原氏)のみが栄えます。
藤原氏北家4代目の藤原良房は娘の明子を文徳天皇(55代目)の女御(側室)にし、明子が惟仁皇子(のちの清和天皇)を産むと、文徳天皇の崩御に伴い、わずか9歳で惟仁皇子が皇位継承します。
この、天皇と自分の娘を結婚させて(姻戚を結んで)天皇家と親戚になることを外戚といいます。
清和天皇の代わりに良房が政治を行うことになり、人臣(朝廷の家臣)で初となる摂政に昇格。さらに、良房の養子である基経も陽成天皇(57代目)の外戚となり摂政と関白に昇格しています。
平安時代の中期(969年)あたりには藤原氏による他氏(他の氏族)の排除が完了しており、朝廷内における藤原氏の権力は絶大でした。
とくに藤原道長の代で藤原氏の権力は膨れ上がり、道長と息子の頼通による摂関政治(摂政と関白による政治)が最盛期を極めたとされています。
<藤原氏の後退>
しかし、平安時代の後期になると、一気に雲行きが怪しくなります。藤原氏の外戚ではない白河上皇(72代目)による院政が始まり、やがて源氏と平氏の武家政権が勢力を強めていくと藤原氏は後退。
※天皇が皇位を譲ると上皇となる。上皇が天皇に代わって行う政治を院政という
とはいえ、江戸時代の末期まで続く摂関は藤原氏北家だけに限られ、藤原氏北家の外部で関白になったのは豊臣秀次ただ一人です。豊臣秀吉は藤原氏の姓を授かっているため、北家の流派とみなされる。
鎌倉時代になっても北家の血筋は五摂家(近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家)として受け継がれ、五摂家が交代で摂関を独占し続けて一定の影響力を持ちますが、政治の中枢からは除外されました。
道鏡の出世と破滅
画像:御祭神絵巻「道鏡」(護王神社)
奈良時代に朝廷で絶大な権力を有した僧侶、道鏡(どうきょう)。
道鏡は弓削氏の末裔とされ、古来、弓を作る職人が縄張りとしていた弓削部(大阪にあったとされる)を統治した豪族が弓削氏と言われています。
また、弓削氏は物部氏に属する豪族だったと考えられ、蘇我氏に滅ぼされた物部守屋は生前に弓削守屋と称していたこともあり、弓削氏もヤマト王権において有力な氏族だったという説もあるようです。
河内(大阪)で生まれた道鏡は、法相宗の高僧である義淵の弟子となり、良弁(華厳宗の僧)からサンスクリット文字を学び、仏教に通じていたことから内道場(宮中の仏殿)の禅師となりました。
761年に病を患った孝謙上皇(46代目の天皇)の看病に務め、この上なく孝謙上皇に気に入られ、飛ぶ鳥を落とす勢いで大出世することになるんです。
<藤原氏との対立>
天武天皇の孫にあたる淳仁天皇(47代目)の即位に貢献した藤原仲麻呂(武智麻呂の息子)は、惠美押勝という名を賜り、朝廷における藤原氏の権力は確立されていました。
しかし、この頃には道鏡も孝謙上皇の後ろ楯があって力をつけており、やがて仲麻呂と対立。仲麻呂が挙兵し、道鏡を討とうとしましたが、反乱とみなされて誅殺され746年に他界します。
称徳天皇(48代目)が皇位継承すると、道鏡は称徳天皇から太政大臣禅師と法皇の称号を与えられ、ついに藤原氏と同格の権力を有するようになるのです。
※孝謙天皇と称徳天皇は同一人物であり、孝謙天皇が重祚して称徳天皇となった。重祚(ちょうそ)とは歴代の天皇が再び即位すること
※天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となる。つまり、天皇に即位したことがない道鏡が法皇を与えられたのは異例のことだった
<宇佐八幡神託の事件>
画像:孝謙天皇(住吉広保・画)
そして、皇族の歴史を揺るがす大事件が勃発します。道鏡は、宇佐八幡の神託(宇佐八幡の神のお告げ)と称して次の天皇にることを思いつきます。
769年に起きた宇佐八幡神託の事件です。
道鏡は称徳天皇に「私が天皇になれば国は安泰するという神のお告げがあった」と伝え、あろうことか称徳天皇は「神様が言っているなら安心だね」と納得。
廷臣(朝廷の家臣)らにも公表し、本気で道鏡を49代目の天皇にしようとしたわけです。
称徳天皇には子供がおらず天皇家や藤原氏に愛着がなかったという背景もありましたが、いくら可愛がられているとはいえ、天皇家以外の者が皇位を継ぐのは許されないと廷臣らは猛反発。
そんななか、和気清麻呂(朝廷に仕えていたが宇佐八幡の神職でもあった)が、別の神託(神のお告げ)をもって称徳天皇に謁見します。
上機嫌な称徳天皇に清麻呂は、「道鏡を排除すべきという神のお告げがありました」と報告。
これに激怒した称徳天皇は清麻呂を大隅(鹿児島県霧島市)に流刑(島流しの刑)とし、道鏡は大隅に連行される清麻呂を追って暗殺しようとしましたが失敗に終わりました。
<道鏡の破滅>
邪魔者がいなくなって一安心の道鏡にダイナマイト級の悲報が届きます。
・・・770年に称徳天皇が崩御(他界)。
後ろ楯を失った道鏡は一瞬で失脚し、朝廷から追い出され、皇位継承は夢となって消えました。
称徳天皇の溺愛を受け、大出世を果たし、それだけでは足りず皇位が欲しくなり、神のお告げと称して天皇になろうとした道鏡。すごいけど、かなりクレイジーですね。
仏教が権威の象徴とされていた時代ゆえに起きた大事件だったのでしょう。
桓武天皇(50代目)は平安京に都を移すと仏教の改革にも取り組み、鎮護国家のための仏教(奈良仏教)から、神格としての信仰的な仏教(平安仏教)に日本は転換していくことになります。
その、平安仏教の功労者となる僧侶が最澄や空海ですね。
※鎮護国家とは「仏教には国を守護・安定させる力がある」という思想のもと築かれる国家
※神格としての仏教とは「神聖な領域の仏教を粗末に扱ってはならない」という思想
古代史は面白い!
画像:聖徳太子(菊池容斎・画)
今回は、古代の日本が「どのような国だったのか」「どのように変わっていったのか」、そして「どのようなキーパーソンが時代に影響を与えたのか」について要点をお話ししました。
古墳時代から平安時代に至るまでの古代史において、時代の転換に大きな影響を与えた蘇我氏、藤原氏、道鏡に共通するのは、天皇と強いつながりをもって権力を高めたということ。
そして、その背景には未成熟な国家を仏教で強くしようとした古代日本の思想が深く関与しており、そうした考えが改められたのは平安時代に入ってからです。
平安時代は藤原氏北家が実権を掌握し、後期まで栄えますが、源氏による武家政権が始まる鎌倉時代には天皇による政治が終わり、さらに武力で国を治める戦国時代は、古代とは全く違う歴史を歩みます。
日本の古代史はモヤッとしていて退屈、そんなイメージをもつ人も多いようですが、全体像を把握したうえでキーパーソンに目を向けると"どんな時代だったのか"が見えてきます。
- どのような国だったのか
- どのように変わっていったのか
- どんなことが起きていたのか
- どんな時代だったのか
これらを紐解く鍵は「その時代に影響を与えた人物」を知ること。そうすると、古代史は10倍おもしろくなりますよ。ぜひ参考にしてみてはいかがでしょうか。