<ステップ4> 蘇我氏の後退
画像:中臣鎌足(菊池容斎・画)
大和朝廷が成立する背景には「天皇」「摂政」「仏教」を取り巻く権力争いがあり、この構造は人や時代が変わっても(飛鳥時代や平安時代になっても)続いていきます。
さて、厩戸皇子が尽力したとされる政治も、実質的に実権を掌握していたのは蘇我馬子でした。蘇我氏の実権掌握は、馬子の子供らにも受け継がれます。
しかし、蘇我入鹿や蘇我蝦夷が中大兄王子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(藤原氏の始祖)らによって滅ぼされ、蘇我氏の独裁政権は終わりを迎えました。
これが、古代史のターニングポイントとなった西暦645年に始まる「大化の改新」です。
大化の改新によって、それまで摂政が仕切っていた政治から天皇が統治する国家へと変わり、日本初の元号(大化)が誕生し、中国との関係が次第に悪化するきっかけとなった出来事でした。
※倭は中国の付属国のような扱いだったが、独自の元号を定めるという行為は独立国家になる表明の意味をもっていた。それまでは中国の元号を使っていた
入鹿と蝦夷の排除に貢献した中臣鎌足は内臣(天皇の側近)に昇格し、主に唐(古代中国)や新羅(古代の朝鮮半島にあった国)との外交を任せられ、軍事における指揮権も与えられました。
668年に中大兄皇子(天智天皇)が38代目の天皇に即位すると、鎌足は669年に内大臣に任命されますが、その翌日に他界します。
中大兄皇子は大化の改新の翌年(646年)に公地公民や班田収授法を開始し、663年には近江大津宮(滋賀県)に都を築いて律令制(法律)の基盤をつくります。
律令制の一つが、すべての土地を朝廷が管理し(公地公民)、その土地を平民に貸して農作物をつくり、そこから税を徴収する(班田収授法)と同時に食料不足の問題を緩和するという制度でした。
669年に中臣鎌足が他界し、やがて天智天皇も崩御(671年)すると、日本の古代史において"最大の内乱"と称される「壬申の乱」が672年に勃発します。
<ステップ5> 天武天皇の即位
画像:天武天皇(集古十種)
壬申の乱が起きた原因は、皇位継承の争い(跡継ぎ問題)でした。
一説によると、そもそも天智天皇の次は大海人皇子(のちの天武天皇。天智天皇の弟)が皇位継承する流れになっていたそうですが、天智天皇が生前に息子の大友皇子に皇位を譲りたいと言ったとか。
天智天皇が没すると、皇位継承しようとする大友皇子に大海人皇子は猛反対。
穏やかに話し合いで解決できるはずもなく、ついに武力抗争に発展してしまった(大海人皇子が反乱を起こした)という説もあるんですが、それら一連の経緯は定かではありません。
こうして勃発した「大友皇子を擁立する派閥」VS「大海人皇子を推す派閥」の大抗争は大海人皇子が武力で勝利し、672年に大海人皇子が天皇(40代目の天武天皇)に即位しました。
このあたりに国号が倭国から「日本」へ変わり、大王ではなく「天皇」と呼ばれるようになったとされていますが、どちらも正確な年号はわかっていません。
大海人皇子が優勢になった背景には、天智政権に不満を抱いていた氏族や豪族たちが大海人皇子を次の天皇に擁立しようとする動きが強まっていたと考えられています。(諸説あり)
※大友皇子は歴代天皇として39代目・弘文天皇という名前で記録されているが正式に皇位を継承したわけではない
天皇家と藤原氏
画像:藤原不比等(菊池容斎・画)
686年に天武天皇が崩御し、690年に皇位を継承した持統天皇(41代目)は694年に都を藤原京(奈良県橿原市)へ移し、律令制を基に日本初の法律となる大宝律令を開始しました。
一方、中臣鎌足の息子(二男)である藤原不比等は、自分の娘(宮子)を文武天皇(42代目)と結婚させ、これにより藤原氏は天皇家との関係を強めていきます。
この、天皇と自分の娘を結婚させて(姻戚を結んで)天皇家と親戚になることを外戚といいますが、外戚は組織の中で権力をもつための近道であり、天皇家が身内というのは強力な後ろ楯になるんです。
皇族と姻戚関係を結んで権力を高める不比等の"常套手段"は子供たちにも受け継がれ、藤原氏の繁栄において重要な役割を果たしました。
ちなみに、聖武天皇(45代目)の正妃(嫁)も不比等の娘(光明子)なんですね。
<ステップ6> 奈良時代
画像:法隆寺
さて、いよいよ古代史の終盤となる奈良時代は、天武天皇が築いた基盤が色濃くなっていく時代です。
707年に文武天皇が崩御(他界)すると、不比等は持統女帝(41代目)の娘である元明女帝(文武天皇の母親でもある)を43代目の天皇に即位させます。
それに伴い、710年に都を藤原京から「平城京(奈良県大和郡)」に移し(平城京の遷都)、以降、桓武天皇(50代目)が平安京(京都府)に都を移すまでの84年間が奈良時代です。
※女帝・・・古代における女性が天皇に即位したときの敬称。女性の天皇。
この頃は遣唐使の働きによって唐(中国)の成熟した様々な文化が日本に伝来し、平城京を中心に派手な貴族が目立ち始め、仏教の信仰も強くなっていったことから天平文化とも言われています。
奈良時代には古事記や日本書紀が成立し、律令制の立て直しとして三世一身法や墾田永年私財法が施行され、国分寺の建立や大仏の造立など目まぐるしく情勢が変化していきました。
一方、藤原氏が荘園(公的支配が及ばない私所有)を拡大し、皇族を取り巻く問題として長屋王の変や藤原仲麻呂の乱が起きたり、飢饉や大地震といったトラブルが続いたり不穏な時代でもありました。
参考記事:歴史年表まとめ読み!「奈良時代」の日本では何が起きていた?
そして、平城京から移行した平安時代(794年~1185年)で古代史はクライマックスを迎え、日本史は中世(鎌倉時代から江戸時代後期)に突入するわけです。
古代日本史のポイント
日本史の原点として弥生時代から飛鳥時代まで時代の移り変わりを簡単におさらいしましたが、押さえておきたい大まかなポイントは6つです。
- 卑弥呼と邪馬台国・・・魏との交流
- ヤマト王権の誕生・・・仏教の伝来
- 蘇我氏・・・物部氏に勝ち藤原氏に敗れる
- 天智天皇の即位・・・大化の改新
- 天武天皇の即位・・・壬申の乱
- 藤原氏が栄えた理由・・・皇族との癒着や姻戚関係
それぞれの時代に分岐点があり、「その時代の有力者」が「何をしたか」を起点に考えると分かりやすくなります。ぜひ参考にしてみてはいかがでしょうか。