ポンコツだが妻には愛された?今川氏真・早川殿夫婦
戦国屈指の「ポンコツ大名」として知られる今川氏真も、妻との関係性に関しては戦国屈指の睦まじさがあったようです。氏真は北条氏康の娘である早川殿と同盟の関係で結婚すると、戦国大名としての今川家が事実上滅亡してからも家康の庇護下で生活していました。
一般的には良いところ無しの武将として知られる氏真がなぜこれほど愛されたのかを知るのは難しいですが、とにかく夫婦仲は良好であったようで、彼ら夫婦は戦国時代を仲睦まじく生き延びています。
そして、慶長18年(1613年)に早川殿が亡くなると、翌年にはまるでその後を追うように氏真も亡くなってしまいました。こうして最後まで連れ添い続けた氏真夫婦は、死後もその仲を象徴する逸話が生まれるのです。
彼らの遺族が申し出たため、氏真と早川殿は対になる形で肖像画が制作されました。普通はこのような形で肖像画が描かれることはなく、極めてまれな作品といえるでしょう。この事実は、当人同士だけでなく周囲から見ても彼らの関係性が良好であったことを示しており、氏真が単なる凡愚でなかったことを示しているのかもしれません。
お家が断絶しようとも…!直江兼続とお船の方夫婦
大河ドラマでも主役を務め、「直江状」でもよく知られる直江兼続とその妻お船の方も、生涯にわたってお互いを支えあう夫婦でした。もともとお船は兼続ではない男性と結婚していたのですが、その人物が死亡してしまったため、直江家の断絶を憂いた上杉景勝によって兼続が婿入りすることで夫婦となりました。
彼らの夫婦仲も非常に良好であり、兼続は生涯にわたって側室をもうけることがありませんでした。また、彼らはかなり高齢になるまで子どもが生まれなかったためか、ようやく授かった子宝も夫婦より先に亡くなってしまうなど、子どもにはあまり恵まれなかったというのが正直なところです。
それでも側室や養子を迎えることはなく、兼続とお船は直江家の断絶を決意することになったと言われています。兼続は元和5年(1619年)に亡くなってしまいましたが、その後お船は米沢藩の藩政に携わるなど、最後まで聡明な女性であり続けました。