日本人が黒船の中で見た衝撃の光景とは?
黒船が浦賀に来るまでの航海ルートは次の通り。
アメリカのバージニア州を出発して西大西洋に南下し、アフリカ大陸に向かってインド洋を通り、シンガポールからマラッカ海峡を通って沖縄から浦賀に太平洋を北上しています。
最短ルートではなく、あえて遠回りするようなルートで渡航したのは、一説によるとペリーの狙いがあったとされています。
黒船は日本への渡航中、各国の港に寄るのですが、その国の役人を船内に招待していたそうです。そして、ペリーが船内の機関室を案内すると役人らは驚きます。
当時の黒船は最先端の蒸気船であり、石炭で動いていました。大きな鉄塊が蒸気を発しながら凄まじい音を立てて動作し、その光景を目の当たりにした役人らはアメリカに脅威を抱くわけです。
「こんな怪物を持っている国とは戦えねぇ・・・」と。
日本も例外ではありませんでした。
ペリーの日本遠征記には、そのときの様子が次のように記されています。
彼ら(日本人)は戦闘本能が強い人種のようだ。 腰に刀を付けて頭にピストル(ちょんまげ)を乗せている。 しかし、彼らも我が国の文明を目撃すれば屈服するだろう。 いよいよ機関室にやって来た。どんな反応をするか楽しみだ。 |
しばらくすると彼らは紙とペンを取り出して何かを書きだした。
どうやら蒸気の仕組みをメモしているようだ。
※翻訳はオリジナルです
幕府の役人は黒船の機関室を見て動力源が「石炭」であることや「蒸気」の仕組みなどを知り、数年後には小型蒸気船の製造に成功しています。
とはいえ、始めて船内を見たときの衝撃は大きかったようです。無論、脅威も感じたことでしょう。
その翌年に幕府はアメリカと日米和親条約を締結し、数か月後には"不平等条約"と揶揄される下田条約を再び締結し、それを皮切りにアメリカやロシアなど9カ国と条約を結ぶことになります。
攘夷に火を付けた修好通商条約
画像:狩野永岳・画「井伊直弼」(彦根城博物館)
幕府がアメリカと結んだ2つの条約。との。
1854年の日米和親条約は、アメリカに対して下田(伊豆半島)と函館の使用を許可したものでしたが、この条約で貿易(通商)については触れてはおらず、食料や燃料の補給は認めるというものでした。
あくまでも、休憩・補給する港として下田と函館への入港を許可したわけです。
しかし、しばらくして貿易の要求が始まり(かなりオラオラな感じで)、幕府は協議するも結論が出ないまま時間だけが過ぎていきました。そこに登場するのが大老に就任したばかりの井伊直弼です。
井伊は船舶技術や海防、貿易による経済成長の必要性を説いてアメリカと修好通商条約を結ぶよう孝明天皇に進言しましたが、攘夷の色が濃い当時の日本において即決できる問題ではなかったのです。
その結果、1858年に井伊は、ほぼ独断で日米修好通商条約を締結。
下田を閉じ、神奈川・長崎・新潟・兵庫への入港を許可しました。さらに、港の周辺には居留置が建築され、欧米文化が国内に流れ込むきっかけとなります。
条約と言っても日本に不利な条件だったことから"不平等条約"と称され、幕府に対する攘夷派(尊皇派も含む)の反発は活発になっていきました。
ちなみに、不平等と言われた理由は、主に次のような要因と考えられます。
条約の中に「関税自主権」と「領事裁判権」の取り決めが定められており、どちらもアメリカに決定権があるという内容でした。
つまり、貿易に関する税金はアメリカが決定し、日本でアメリカ人が犯した罪はアメリカの法律で裁くというもの。
ほかにも細々した点でアメリカにとって優位な条件が目立つため、不平等条約と呼ばれているんですね。
この条約がスタート地点となり、年内(1858年)にオランダ・ロシア・イギリス・フランスと修好通商条約を締結し、これらを総称して安政五カ国条約とも言います。
長期にわたる鎖国から一変し、一気に開国となった日本。
攘夷運動は加速し、安政の大獄により井伊直弼は水戸浪士に暗殺され(桜田門外の変)、薩長同盟や大政奉還、王政復古の大号令を経て戊辰戦争につながり、日本は明治時代に突入するのです。
黒船来航が日本に与えた影響
画像:大政奉還(明治神宮聖徳記念絵画館)
さて、今回は幕末のきっかけとなった黒船来航についておさらいしましたが、開国を要求したアメリカの目的や攘夷派の不満を強めた原因などお分かりいただけたと思います。
開国によって欧米や西洋の文化が日本に入り、やがて訪れる文明開化の明治時代。異文化の交流で後世の礎となる技術や知識が養われ、明治から遠くない未来、日本は先進国の仲間入りを果たします。
黒船来航は日本史における大きな分岐点と言えるでしょう。