当時の合戦について、
●宣教師ルイス・フロイスの記録
私たちの国では騎乗して戦うが日本は戦うときに馬から降りる
●甲陽軍監(武田氏の軍記物語)の記録
大将や幹部7~8人は騎乗で控え、残りは馬を降りて槍を持って突撃した
と記されている一方、
●徳川家康の書状(長篠の戦いの3日前の日付)
武田軍は騎馬で突撃してくるから防御するための柵を作っておきなさい
●信長公記
武田軍の家臣である小幡氏の部隊は騎馬の達人で太鼓を打ちながら突撃してくる
といった武田軍が騎乗にて戦っていたことを示す史料も確認されていますが、それでも、検証や当時の状況から考えると総合的な見解として、戦国時代の合戦で騎乗で戦っていた可能性は低いと言えそうです。
なぜ騎馬隊という風潮が広まったのか
画像:相馬野馬追祭の大熊騎馬隊(大熊町役場)
騎馬隊が日本の戦闘シーンで確認されているのは、1905年の日露戦争で秋山古好が「騎兵隊」を率いてロシアのコサック騎兵に勝利したことが始まりと考えられています。
騎兵とは、戦場で伝令や偵察、物資の搬送などを馬に乗って行う兵士で、奇兵隊は全員が馬に乗って任務を行う部隊。もちろん、戦力として出撃することもあり、その際も騎乗で戦っていたことが分かっています。
それに対して戦国時代の馬は、大将や幹部クラスの武将が移動するときに乗ったり物資を運ぶ際に用いられたり、馬は単独で使用されるだけで集団で騎乗したり、ましてや騎乗して突撃していた可能性はゼロに近いです。
では、ドラマや映画、または戦国時代を描いた絵巻物などに登場する騎馬隊は、どのように生まれたのでしょうか。
それは、少なからず戦国時代にも馬に乗って任務に就いていた武将がおり、その者たちの役割は主に連絡係でした。また、戦場で退散する敵兵を追う際にも馬で追尾しています。
つまり、特定の任務に就いていた者は戦場でも騎乗していたということです。連絡や伝令の時間短縮に、ときには馬に乗って退散する敵将を追尾したり、その光景は騎乗した兵が戦っているように見えても不思議ではありません。
そうした光景が戦国期の絵巻物で描写され、それらが江戸時代の軍記物語などにも登場し、あたかも騎乗で戦う武士がいたかのように勘違いされて広まり、もっと尾びれがついて、やがて架空の「騎乗で戦う集団」が誕生していくわけです。
画像:長篠合戦図屏風「柵を構えて騎馬の武田軍を防ぐ徳川軍」(徳川美術館蔵)
そして、武田の騎馬隊が代表的になったのは、武田信玄の所領では「使役馬」が多く用いられていた可能性が高いようです。使役馬とは、背中に積み荷を乗せて兵站(へいたん※)と共に行動する馬のこと。
※(兵站とは、軍事装備の調達、補給、整備、修理または人員や装備の輸送などを担う兵士)
信玄は木曽駒や甲斐駒を農耕馬として活用し、農耕馬は農作に用いる馬なので小ぶりながら比較的に体格がしっかりしており、使役馬にも用いていました。
進軍の際に使役馬を多く引き連れ、その中には前述したように馬に乗って移動していた武将もいたわけで、たとえ騎馬隊でなくとも武田軍にとって馬は合戦や農作において必要不可欠なツールだったことは確かです。
さらに、武田家の本拠地である甲斐国(現在の山梨県)は戦国時代よりも前から馬(甲斐駒)の産地であり、これらの条件が複合的に重なって、「甲斐の武田=馬」へ、やがて「武田軍=騎乗の武士」というイメージ仕上がっていくことになります。
また、武田軍の戦力が秀でていたことは史料などでも確認できますし、「武田軍は馬を駆使した強い部隊」というザックリした解釈が、「武田の騎馬隊は戦国最強」という架空の戦闘集団を生んだ根源になったと言えるでしょう。
やがて、現代のドラマや映画の基になり、史実が脚色されて騎馬隊が突撃する派手なシーンが生まれることになります。
では、「騎馬隊が架空なら武田軍の強さもフィクションなのか?」といえば、それとこれは別の話。戦歴や戦法など軍事力が秀でていたことからも、信玄が一目置かれていた武将であることは間違いないでしょう。