意外と面白い「江戸時代」の雑学10こ
画像:元離宮二条城
辞書によると、雑学とは「種々雑多な知識の集合体」とのこと。わかりやすく言えば、調べてまで得る必要のない知識の集まり。知ったところで、ほとんど役に立たない知識の集合体というわけです。
しかし、雑学には「面白い」「興味深い」といった側面があり、たとえば、雑学がきっかけで日本史や世界史、または歴史上の人物に興味をもつ"入口"になることもあります。
そうした意味を踏まえた上で、今回は「江戸時代」の雑学がテーマ。関ヶ原の戦いが終わり、大阪夏の陣で豊臣家が亡びて以降、265年に渡って徳川幕府が政権を維持した江戸時代。
なかでも幕末は激動の時代であり、多くの藩士や志士の名が後世に語り継がれています。世界最古の会社や日本で初めてレンタルされた商品など、確かに無理して調べるほどでもない知識ですが、そんな雑学を今回は紹介したいと思います。
ペリーの黒船は、なぜ黒い?
画像:本間北曜・画「黒船」(本間美術館)
1853年7月8日、日米和親条約の締結に向けてアメリカ合衆国大統領の国書を日本に持ってきたペリー。真っ黒な軍艦で浦賀沖に来航し、町人や漁師を驚かせました。
※浦賀沖・・・神奈川県横須賀市浦賀。当時、江戸湾への入り口であった
ペリーの軍艦は「黒船」と呼ばれ、鎖国を解いてアメリカとの貿易を開始することを要求しました。翌年の2月13日に再び黒船が来航し、日米和親条約の締結が成立。この出来事が、幕末のきっかけとなりました。
また、2度目の来航時に黒船はリンカーン大統領の誕生日(2月12日)を祝して大砲を打ちながら浦賀沖に入港したそうですが、攻撃を受けたと勘違いして江戸や横浜の町は大騒動だったそうです。
ところで、なぜペリーの軍艦は黒塗りだったのでしょうか。
その理由は、
船の木材が腐らないように塗った塗料が、たまたま黒かった |
だけです。黒船の塗料は「コールタール」という液体で、コールタールの原料は石炭なので必然的に黒くなります。粘着性があり、防腐剤の効果が高いため、船の素材(木材)が水で腐るのを防ぐためにコールタールを塗っていました。
当然ながら、コールタールを全面的に塗った軍艦は黒くなりますし、何かの意味があって黒くしたわけではないんですね。製造過程において、たまたま黒くなったというのが理由です。
日本初の会社は亀山社中ではなかった?
画像:ダイヤモンド社
現代の会社に類似した組織を日本で初めて結成したのは坂本龍馬の亀山社中(1865年)が一般的に有名ですが、歴史をさかのぼると、世界最古とされる個人企業の大工集団が今から1441年前にいたんです。
西暦578年(飛鳥時代)に創業した「金剛組」です。金剛組は、主に神社仏閣の設計や建築を手掛ける「宮大工」の集団で、四天王寺の建築に伴い聖徳太子に招かれた3人の宮大工の一人、金剛重光が創業しました。
<宮大工>
釘や補強の金物などを使わず、木材を組み合わせる「木組み」「組み上げ」という特殊な工法で建築や修復を行う大工。一寸の狂いも許されない緻密な技術が求められ、木材の加工も木組みも全て手作業です。 主に寺社仏閣や格式高い文化建造物の修復・建築を行い、時代と共に技術を有する職人が減り、宮大工は貴重な存在となりました。 金剛組の他にも、歴史上の宮大工として、戦国時代に名古屋の熱田神宮や安土城の建築を手がけた岡部又右衛門などがいます。 |
その後、四天王寺は1576年に織田信長によって焼失しますが、すぐに金剛組が再建。再び、1614年の大阪の陣で焼け落ちますが、またもや金剛組が建て直しました。
四天王寺は計7回の焼失・損壊を受け、いずれも金剛組が再建しています。ほかにも四天王寺だけでなく、水戸偕楽園(好文亭)の修復や総持寺(開山堂)の建て替えなど、多くの寺社仏閣に携わっています。
<修復・建築した主な建造物>
●四天王寺の建築
●四天王寺の修復、建て直しなど計7回
●身延山久遠寺の五重塔を再建築
●水戸偕楽園(好文亭)の修復
●総持寺(開山堂)の建て替え
●海洋堂(大魔神)の社殿を再建
●江戸城の田安門を建築
●大坂城の一番櫓を建築
●奈良・法隆寺の改築
●京都・知恩院の大鐘楼を建築
など、ほか多数
参考:金剛組ホームページ
https://www.kongogumi.co.jp/architecture_bunka1.html
飛鳥時代から江戸時代が終わるまで金剛組は四天王寺お抱えの宮大工として活躍し、その後も創業から代々受け継がれ、昭和30年に個人企業の体制を終え、新たに株式会社として登録しました。
金剛組は現在も100人を超える宮大工や職人を抱え、創業から1400年以上が経った今でも寺社仏閣の修復や建築を手掛け、さらに事業を拡大し、一般家屋や商業施設などの建築・施工を行っています。
大名行列を横切っても許された職業とは?
画像:楊洲周延・画「諸侯初登城之図」
大名行列が通り過ぎるまで村人や町人は正座して顔を伏せる(土下座する)というイメージですが、これは誤解で、徳川将軍家と徳川御三家(紀伊徳川、尾張徳川、水戸徳川)の場合だけです。
徳川将軍家と徳川御三家の大名行列は「下に、下に(座って頭を下げろ)」という掛け声を発しながら通るので、土下座して通り過ぎるのを待つ必要がありました。
そのほかの大名行列は「避け、避け(よけよけ)」や「片寄れ、片寄れ」といった掛け声なので、通り過ぎるまで道を開けておけば問題なかったのです。
しかし、大名行列を「横切る」のだけは御法度(やってはいけない行為)でした。もし横切れば無礼者と呼ばれ、最悪の場合、その場で斬り殺される(無礼討ち、または切捨御免という)ほど禁止された行為(重罪)でした。
ところが、大名行列を横切っても許される職業がありました。産婆(助産師)と飛脚(配達人)に限っては、タイミングを見て邪魔にならない範囲で横切ることを許されていたそうです。
江戸時代の変わった線香の使い方
画像:月曜座禅会(大本山永平寺別院 長谷寺)
お線香が日本で習慣化し始めたのは江戸時代。寺僧は線香が燃え尽きるまで座禅を組み、そうしたことから線香には
身心を清める神聖な意味があるとされました。
また、自分の想いを故人に知らせる役割もあり、お墓や仏壇で線香をたく習慣が始まったと言われています。
ちなみに、当時の線香は1本が燃え尽きるまで40分ほどで、タイマーとしても使われていたようですね。なかでもユニークな使い方が遊郭(売春宿が立ち並ぶ区画のこと)での線香の役割。
1セット分の制限時間は1本の線香が燃え尽きるまで、という決まりだったそうです。つまり、遊郭の1セットは40分。苦手な客には、わざと線香を折って短くしていたとか、いないとか・・・。
あと、線香を口で吹き消すのは失礼な行為とされていますが、その理由は、人間の口は様々な物を飲み食いし、悪口や汚い言葉を吐くこともあり、仏教の教えでは不浄なものとして扱われています。
不浄な口から出る息で神聖な線香の火を吹き消すのは無礼な行いという意味があるわけです。
江戸時代のイチゴとキャベツ
苺(イチゴ)が初めて日本に来たのは江戸時代。オランダから日本に輸入され、今では記載種や雑種(未記載種)を含め50品種を超えるイチゴがありますが、総称すると全てオランダイチゴになります。
フルーツの中でも人気の高いイチゴですが、江戸時代には「食べもの」ではなく「観賞用の植物」として扱われていたそうです。イチゴと同様に、江戸時代に日本に伝わったキャベツも観賞用だったそうです。