アイスクリームの初上陸
画像:昔なつかしアイスクリン(OHAYO)
食べもの関連で、もう一つ。アイスクリームを初めて食べた日本人は1860年に咸臨丸(幕府海軍が保有していた軍艦)で渡米した遣米使節団と言われています。
その後、日本にアイスクリーム(正確にはアイスクリームのレシピ)が初上陸したのは明治2年で、横浜の氷店(氷売り)がレシピを手本にしてアイスクリームを作ったのが日本初とのこと。
生乳・卵黄・砂糖のみで作られ(レシピには諸説あり)、「アイスクリン」という名称で発売されました。当時としては、どれも高価な原料だったため、価格は現在の価値に換算すると一つ7,000~8,500円だったようです。
当然ながら庶民が食べられるはずもなく、セレブしか食せない贅沢品だったんですね。アイスクリームとシャーベットの中間の食感で、たくさん砂糖を使えないので甘さ控えめ。現代人が食べても、おそらく美味しいとは感じないでしょう。
アイスクリームが工場で機能的に生産され始めたのは1920年(大正9年)からですが、それでも高級品であることは変わらず、庶民が食せるようになるのは随分と先のことになります。
日本で初めてレンタルされた商品は?
画像:マジカルホワイトコーデ六尺褌(©GOOD SMILE COMPANY)
DVDやCD、機材や車など、今は様々な物を手軽にレンタルできる時代ですが、日本で初めてレンタルされた商品は何だったのでしょうか。さかのぼること江戸時代。
当時、男性の下着だった「六尺ふんどし」は伸ばすと2メートルもあり、洗濯するのも一苦労でした。値段も低価格でなく、何枚も買い置きできなかったので江戸の男たちにとって下着は日常生活における悩みの種だったのです。
そうした問題を解決するために、問屋の商人が六尺ふんどしのレンタルを開始。ふんどしを貸して、汚れると安価で洗濯し、シワ伸ばしまで施してくれたので庶民は大助かりでした。
十八番(オハコ)の語源
画像:歌川国貞・画「七代目・市川団十郎」№201-0784(早稲田演劇博物館)
パソコンやスマホで「オハコ」を変換すると「十八番」と表示されます。「もっとも得意な芸や自信があること」を意味する言葉ですが、この言葉の語源には諸説あり、今回は歴史をさかのぼって由来を紹介いたします。
十八番の正式な読み方は「オハコ」ではなく、「じゅうはちばん」と読むのが正しいとされています。では、なぜ「十八」という数字なのか、なぜ「オハコ」と呼ぶようになったのでしょうか。
江戸時代に入ると、高価な書物や絵巻物、茶器などを丁寧に箱に入れて保管し、その際、鑑定人が「本物(真作)」と認めた証として「箱書き」というものを添えました。これを「お箱(オハコ)」と呼んでいたそうです。
そして、江戸時代の初期には「武芸十八般」が中国から伝わり、武芸十八般とは、棒術や槍術、剣術や弓術など武士の心得るべき武芸18種類を示した教えになります。
心得「18」種類と本物である証の「お箱」、それらのルーツが合わさって「十八番(オハコ)」と呼ぶようになったのではないかと考えられます。
1831年(江戸時代の後期)の文献「正本製(しょうほんじたて)」を見ると、十八番と書いて「オハコ」と読んでいることが確認でき、歴史に関する文献の中で十八番をオハコと呼んでいるのは正本製が初めて。
また、歌舞伎役者の七代目・市川團十郎が初代・團十郎、二代目・團十郎、四代目・團十郎が得意とする18種の演目を選び、市村座で「市川流・歌舞妓狂言組十八番」を公表したのも1832年3月なので同じ頃です。
よって、十八番(オハコ)は江戸時代に生まれた言葉である可能性が高いですね。
二宮金次郎は、なぜ薪を背負って本を読んでいる?
画像:二宮金次郎の銅像(持佛寺)
一昔前までは、学校や文化施設などで必ず見かけていた「二宮金次郎」の銅像。薪を背負いながら本を読む金次郎の姿を、一度は目にしたことがある人も多いはずです。
しかし、建物の老朽化に伴い、学校の立て直しと同時に二宮金次郎の銅像も撤去されるケースが増えているようです。
さて、二宮金次郎の銅像といえば一生懸命に本を読んでいる姿が印象的ですが、何をするにも本を読んでいたので、当然ながら薪を運んだり、ちょっと出かけたりする時にも本は手放せません。
では、どんな本を読んでいたのでしょうか。
正解は、儒家の開祖で哲学者である中国の「孔子(こうし)」の「弟子」が書いた本。
大学とは大人(たいじん)という意味で、"リーダー"や"統率者"のこと。儒教の教えを学び、人徳を積み、善を行うことを心掛けながら学問に励んだ金次郎は、死後、業績と功績を明治天皇に称えられる人物にまで成るわけです。
ちなみに金次郎は通称で、本名は二宮尊徳。徳を尊ぶという名前に恥じない生涯を送った偉人です。
金次郎は江戸後期の農政家、思想家ですが、農民の子に生まれ、幼い頃から苦労と共に独学で学問を学び、没落した実家を再興したあと、その手腕を活かして諸藩や600もの村の復興に尽力しました。
村や藩ごとの生産力に応じて分度※を定めて勤倹※を説き、富が増えれば譲り合うという社会的な奉仕行為「報徳思想」を世に広め、身分にかかわらず多くの人から支持を受けました。
※分度は二宮尊徳が定めた制度。経済面の自分の実力を知り、それに応じて生活の限度を決めること
※ 勤倹とは、仕事や学問に励み、無駄な出費を少なくすること
金次郎が他界すると、弟子であり娘の婿でもあった富田高慶が金次郎の行いや言論を記した「報徳記」を執筆し、報徳記を拝読した明治天皇は感銘を受け、宮内省(宮内庁の前身)に印刷させて県知事などに贈ったそうです。
この出来事がきっかけで金次郎の名は全国に知れ渡り、明治時代の文豪・幸田露伴が「二宮尊徳翁」を執筆(明治24年)した際、挿絵として使われたのが「少年の金次郎が薪を背負い本を読む姿」でした。
以降、その挿絵のイメージが定着し、勤労少年の象徴として全国に二宮金次郎の銅像が建てられました。
1メートルは、なぜ100センチなのか?
1m(メートル)は100cm(センチメートル)。小学校で習う算数の基本ですが、「なぜ1メートルが100センチなのか?」までは教わらなかったはずです。
メートルが誕生するまで、アメリカなど欧米諸国では昔からヤードやフィートが長さを測る測定の単位として使われていました。なお、それらの単位はゴルフや製造業など、現在でも多く用いられています。
※1yd(ヤード)・・・約90センチ、1ft(フィート)・・・約30センチ
一方、日本は尺や寸といった単位が使われており、それらも、現在でも使われています。
※1寸(すん)・・・約3センチ、1尺(しゃく)・・・約30センチ
さて、1メートルが誕生したのは1795年で、世界共通の単位を決めるためにフランスで会議を行いました。日本では、杉田玄白が解体新書を発表したり松平定信が老中になって寛政の改革を開始したあたりの時代です。
話し合いと決議の結果、世界共通の測定単位を「メートル」と定めたのです。これが、メートル法と呼ばれるものです。
次に、1メートルの「長さ」が、なぜ「100センチメートル」になったのでしょうか。
1メートルの長さを決めるにあたり、
まずは、フランスのダンケルクからスペインのバルセロナまでの距離を測り、次に天体観測で正確に緯度差を算出し、それらを基に「子午線」の長さを計算した結果、子午線の長さは4万km(キロメートル)という数値になりました。
ちなみに、子午線は地球を1周しているので、地球の外周が4万kmと言われるのは、このことが由来となっています。
そして、子午線4万kmを基準にし、その4000万分の1を「1メートル」と定義付けたのです。
1メートルが100センチなのは、100分の1を表す単位(SI接頭語)である「c(centi)」が基準になっているからです。つまり、センチがつく長さは、元の長さの100分の1ということになります。
結論。
1795年にフランスの会議で
子午線の長さを算出したら「4万km」 |
となり、
その4000万分の1の長さが「1メートル」 |
となり、
100分の1を表す「c(centi)」を定義にしたので「1m」は「100cm」 |
になりました。
さて今回は、江戸時代に関する雑学をいくつか紹介しましたが、「なるほど」と思った雑学はありましたか?なかには信ぴょう性が曖昧な話もありますが、今後、歴史を楽しむ参考やきっかけになれば幸いです。