「戦国時代」というネーミングからもわかるように、この時期の社会を象徴する出来事はやはり戦(いくさ)でした。
しかし、戦国武将が毎日戦に興じていたかといえば、決してそんなことはありません。確かに戦の回数は少なくなかったものの、現代に生きる我々とそう変わらず「娯楽」に興じる時もありました。
そこで、この記事では戦人たちが嗜んだ「娯楽」を紹介し、当時の生活における実像を紐解いていきます。
「和歌・漢詩」よき歌詠みも多かった
まず武将たちの娯楽として真っ先に思い浮かぶのは「和歌・漢詩」、つまり歌を詠むことでしょう。「歌を詠む」といえばどうしても平安時代が連想されがちですが、戦国時代においても歌を詠むという文化は、依然として廃れてはいませんでした。歌には主に2つの種類があり、「和歌」「漢詩」のどちらも読まれています。
ただしやはり、こうした歌詠みの文化を主に担っていたのは、天皇や貴族ら格式の高い人物たちでした。当時朝廷の勢力は衰えていたとはいえ、依然として格式という面では右に出るものがいなかったのです。ちなみにこれは、後に挙げるほとんどの娯楽にもいえることとなります。
こうした事情もあり、歌詠みとして優れていたのは古くから続く由緒ある家系に生まれた戦国武将たちでした。中でも将軍に仕える名門・細川家に生まれた細川幽斎(藤孝)は、師匠より口伝される『古今和歌集』の読み方「古今伝授」を体得しているほどの名人であったため、現代でも当代一の歌詠みとして評価されています。
もっとも歌詠みそのものは、かなり一般的な娯楽であると同時に、武将たちにとっては一種の教養となっていました。そのため彼らが詠んだ歌や詩については多くが現存しており、我々も気軽にその内容を知ることが可能です。
「茶の湯」千利休をはじめ権力と密接に結びついていた
茶の湯も戦国時代の娯楽として有名です。千利休などの茶人がかなりの権力を握り、大名たちの間でも趣味および教養として広まっていきました。
そのため、大小さまざまな茶会が開かれていましたが、中でも有名なのが秀吉によって主催された「北野大茶会」でしょう。この茶会は日本中から茶人だけでなく大名や歌人が集まり、まさしく「文化人のオールスターゲーム」という様相を呈していました。
もっとも秀吉の構想があまりにも大規模過ぎたあまりに、当初10日間の開催が予定されていた茶会はわずか1日で中止されてしまったのもまた事実です。とはいえ、時の権力者が茶会を主催するほどに、茶の湯は社会に浸透していたということが理解できるでしょう。
また茶の湯の流行で茶道に使用される「茶器」についても流行し、出来の良いものは「名物」として重宝されるようになりました。中でも茶器を愛したことで知られる人物は織田信長で、自身が大の収集家であっただけでなく、功を挙げた家臣に対して領土の代わりに茶器を与えているほどです。
なお、恐らく一般に最も知名度のある茶器は、松永久秀が所有した「平蜘蛛」ではないかと思いますが、この茶器に関しては信長によるたびたびの要求を久秀が断り続け、ついには彼とともに爆散し焼失したという伝説が残されています。
「能(能楽)」大名によっては優れた芸人を後援していたほど
古くは奈良時代にまでさかのぼる芸事の一種「能(能楽)」は、応仁の乱以降、それまで後援者であった朝廷や貴族が力を失ったことで、都とともに衰退してしまっていました。そこで再び能に脚光を当てたのは、下克上などによって力をつけてきた戦国武将たちの存在でしょう。
彼らは優れた芸人を支援し居城に招くだけでなく、自分たちが後援者となることによって結果的に能が再興していったのです。しだいに「優れた芸人を有していることが名誉である」と考えられるようになり、武将によっては芸人の養育や保護にも力を入れていました。
中でも能を愛したことで知られる武将は豊臣秀吉で、彼は上記のような能楽の保護だけでなく、自身も舞い手として能に興じ、さらには自分自身の活躍をテーマにした演目を作成させるなど能に対して深く精通していたようです。
無論、庶民の出に過ぎなかった秀吉が能を愛するキッカケを作ったのは織田信長で、彼の好んだ『敦盛』の「人間五十年」から始まる一節はあまりにも有名でしょう。この逸話からも、能が当時の社会にどれだけ定着していたかを知ることができます。