「鷹狩り」時の権力者たちに愛された貴族の嗜み
鷹狩りの歴史は非常に古く、旧石器時代からその痕跡が確認できます。日本でも天皇や一部の貴族たちによって愛された「上流階級の趣味」として定着していましたが、時代が移り変わると武士たちの間にも広く浸透していきました。
鷹狩りをこよなく愛したのは織田信長で、『信長公記』の中にも「信長が特異な方法で鷹狩りに興じていた」「諸国の武将から鷹狩り好きで知られる彼のもとへ、こぞって鷹が献上された」などの逸話が残存しています。
さらに、彼の跡を継いだ豊臣秀吉や徳川家康なども鷹狩りを愛し、これを庇護しました。特に家康に関しては、彼の家臣として著名な本多正信が元は鷹匠(鷹を扱う人間)であったことが良く知られており、武家においても鷹の存在は重要であると考えられていました。
家康は江戸幕府開設後に、「鷹狩り」というシステムを幕府体制の中へと組み込みました。鷹場や鷹匠を統制下に置いたことで、室町幕府以降一般に浸透していた「自由な鷹狩り」は規制の対象となってしまいました。
「衆道」武士の嗜みとされた“禁断の愛”
衆道とは、男性同士の恋愛(男色)を武士の間で交わすことを指します。もともと文化としての衆道は鎌倉時代より存在し、「衆道を嗜むことは文化人の証」とさえ捉えられていたようです。
そのため、衆道に没頭していた武将は枚挙にいとまがありませんが、ここでは「痴情のもつれ」がキッカケ?となり、家の滅亡へと繋がってしまった大内義隆と陶晴賢の関係性を紹介していきます。
二人は主従関係にありながら同時に衆道の関係にもありました。しかし晴賢が成長していくと、義隆は彼以外の部下を愛し始めたのです。もちろん原因はこれだけではないでしょうが、恐らく一つのキッカケとなって晴賢は謀反を決意。彼は大寧寺の乱を引き起こし、かつての恋人である義隆を滅ぼしてしまったのです。
他にも多数の大名が衆道に明け暮れており、逆に一切逸話が残されていないのは豊臣秀吉くらいのものです。ただし誤解のないように言っておくと、「衆道」はある種の文化的行為であり、大名たちは子を残すため妻とも良好な関係を築いていました。
まとめ
ここまで戦国武将が嗜んだ娯楽について解説してきました。
もちろん今回触れることができたのは娯楽の代表的なものに過ぎず、他にもお香や武術、読書や華道など、非常に多岐に渡る趣味を持っていました。
ただ、本文からも読み取れるように、武将たちにとっての娯楽は「教養」を誇示するための手段でもあったことを忘れてはなりません。信長や秀吉などの「成り上がり者」は、自分たちがどれほどの教養を有しているか、それをアピールしなければ権威を保てなかったのです。
現代でも、いわゆる「成金」と呼ばれる人たちが芸術品を買いあさる行為などを耳にすることはありますが、彼らの振舞いはそれに似ているのかもしれませんね。