鎌倉~戦国時代にも化粧という文化が廃れることはなかった
平安の貴族が化粧をしていたというのは一般常識としてご存知の方も多いかと思いますが、それ以降の時代で化粧という文化はどのような発展を遂げたのでしょうか。
結論から言えば、貴族文化の終焉と共に化粧が廃れていくどころか、むしろ一般の民衆にまで広がっていくことになりました。
鎌倉時代には、武士たちが化粧をするということ自体は徐々に減っていったようです。
平安末期の貴族意識を強く持った武将たちの間では化粧が確認できるものもありますが、武士にとっての化粧は時代を下るとだんだん一般的ではなくなっています。
しかし、武士の世になったとはいえ権威として輝いていた貴族社会では化粧をすることが当然の習慣であり、武士といえども彼らと対面する際には化粧を求められることがあったようです。
ちなみに、我々の良く知る戦国大名でも日常的に化粧をしていたという説が存在するのは駿河の今川義元で、貴族文化への憧れから化粧をしていたと語られることが多いです。
もっとも、「化粧を嗜む」ということは「和歌が詠める」ということと同じように文化人であることを示してもおり、彼が「女性的であった」や「軟弱であった」と決めつける根拠にはならないことも付記しておきます。
このように、武士の間では化粧の文化が貴族のそれほどには定着していなかったわけですが、女性の間では一般民衆にも広がるほどに当然の習慣となっていきました。
鎌倉時代に権力を握った北条政子の化粧箱が現代にも伝わるほか、室町時代の民衆を描いた絵には必ずしも高貴でない女性が化粧をしている光景を見ることができます。
したがって、この時期には高貴な女性だけでなく民衆にも徐々に化粧文化が浸透し始めていたと考えられるでしょう。