町人の化粧文化が花開いたのは江戸時代
戦国時代が徳川家康の勝利によって終結すると、世は太平の時代へと移り変わっていきました。江戸時代は大きな戦争がほとんどなかった分、江戸を中心に町人の文化が花開いていきます。
その中で化粧も女性の嗜みとして完全に定着し、白粉を重ねて濃淡をつけることがベースの化粧になっていました。ここに引き眉や口紅といった化粧を乗せていくことで、江戸時代の美人画に描かれているような女性の容貌が完成していったのです。
また、江戸では歌舞伎が大流行しており、男性であっても歌舞伎役者は化粧を嗜みました。
彼らの化粧ぶりは女性たちも大いに参考にしていたようで、歌舞伎の実力を評価するだけでなく、現代で言うところのモデルのように「ファッションリーダー」としての側面も兼ね備えていたと指摘されます。
さらに、江戸の女性が憧れていたのが「遊女」と呼ばれる娼婦たちで、彼女たちは豪華絢爛な衣装に身をまといファッションの流行を左右していたとも言われています。
他にも絵画などから流行の化粧を読み取っていった女性たちは、次第に強まっていく「ぜいたく禁止」の改革にも負けず、化粧文化を謳歌していきました。
明治に入ると欧米文化の輸入で化粧が一変し今に至る
町人を中心とした江戸の化粧文化は、時代の移り変わりとともに廃れていくことになりました。明治時代に入ると、文明開化の波を受けて政府がお歯黒などの化粧を自粛するように求めていたのです。
これによって上流階級の女性たちも欧米流の化粧を嗜むようになっていき、それに影響された一般の女性たちも化粧のスタイルを変えていきました。
さらに、女性だけでなく社会全体で服装を「和服」から「洋服」へと改めるようになっており、化粧もまた洋服に合ったものが選択されるようになっていきます。
明治のころはあくまで上流階級の女性にとどまっていた変化ですが、大正時代を過ぎると一般の女性も洋服を着こなすようになっていきます。
こうして現代流の化粧が女性たちに定着していき、昭和初期には「モガ(モダンガール)」と呼ばれた女性たちがオシャレを謳歌しました。こうした風潮は戦争による自粛の波を超えて引き継がれていき、現代に至るのです。