受け継がれた治水の魂
1600年、家康が関ケ原の戦いに勝利すると、その翌年に忠次は街道の整備を命じられ、まずは東海道の各地に宿場町をつくり、次に伝馬制※を設けるなどの整備を施しました。
1602年には東海道と同様に中山道にも宿場町や伝馬制を整備し、翌年1603年に家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きました。
※伝馬制とは書状や荷物を運ぶ際の馬を各所で乗り継ぐ仕組み。各所で馬を乗り換えることで効率よくなる(馬のスタミナ切れや途中での休憩が必要ない)ため、従来よりも早く運搬できる
さらに忠次は治水事業の一環として利水工事にも着手します。埼玉県の北部から東西に23キロメートル流れる農業用水路を開削し、土地の高さを測り、水が流れるかなど夜通しかけて作業したそうです。
流域に水田がつくられ、広域にわたり新田を開発しました。
この用水路は備前堀用水と名付けられ、時代が変わると共に開削などが加えられ現在は備前渠用水となっていますが、415年以上が経った今でも農業用水路として活用され、地元の住民が保護しています。
それから数年後の1610年8月1日、治水や利水など大規模な土木プロジェクを成功させ江戸幕府の財政基盤づくりに多大な功績を残した秀次は61歳で他界(病死)しました。
忠次が屋敷を構えていた武蔵国(埼玉県)の小室(北足立郡)は、忠次の功績を称えて「伊奈町」という地名が名付けられています。
そして、忠次の死後、治水事業を受け継いだのが息子の伊奈忠治です。
利根川の治水事業
現在の利根川は銚子から太平洋に流れていますが、400前は東京湾(当時の江戸湾)に下っており、この流れを銚子へと変える治水工事(利根川東遷事業)を行ったのが忠治でした。
忠次が1594年に行った会の川の塞き止め(川俣)を起点とし、
忠治は赤堀川(茨木県)の増削と通水を開始。
江戸(東京)に向かって流れていた利根川の水の流れを霞ヶ浦(茨城県の南東部)へと変え、60年の歳月をかけて暴れ川と呼ばれた利根川の流れを銚子へ向けることに成功しました。
忠治や多くの人員の手によって利根川は茨城県から銚子へ流れ、太平洋へと流れ込む現在の仕組み(川の流れ)が出来上がったのです(1654年に完成)。
忠次が行った中条堤の治水に加えて忠治の利根川東遷事業で江戸は洪水から守られ、江戸のみならず治水や利水によって関東平野全域の水田が大いに栄え、穀倉地帯に発展しました。
親子2代にわたり江戸幕府の財政基盤づくりに尽力し、計り知れない功績を残したわけです。なお、茨城県つくばみらい市伊奈地区の地名は忠治から名付けられています。
その後も伊奈一族は10代まで続き徳川幕府に貢献し、忠次の志は脈々と受け継がれていきました。
優れた才覚と人望で家康の厚い信頼を受け、国内トップクラスの暴れ川を治水し、掲げた目標通り利水によって広域な新田開発を成功させた忠次。
不利益と思われた関東平野に可能性を見出した先見性や地域住民に慕われる人望、治水や新田開発など難題なプロジェクトに挑む計画性や実行力など、どれをとっても一流と呼ぶに相応しい人物です。
その志は息子に受け継がれ、令和になった現代でも地域住民らが連携して用水路の保護や防災対策に取り組んでいます。忠次が残した志は、この先も関東平野と共に生き続けていくのでしょう。
参考にさせて頂いた資料
・伊奈忠次の治水プロジェクト(伊奈町の地域情報サイト「いなナビ」)
・角川書店「世界人物逸話大事典」
・本間清利・著「時代を創る伊奈忠次」
・本間清利・著「家康政権と伊奈忠次」