細川ガラシャの護衛
画像:細川忠興と細川ガラシャの銅像(勝竜寺城跡)
しばらくして秀吉が天下をとり、二度目の朝鮮出兵(慶長の役)では細川軍の鉄砲隊として蔚山倭城に出陣。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いが開戦する2ヵ月前には、忠興の妻・ガラシャを警護するため細川家の屋敷に滞在しています。しかし、忠興と対立する石田三成が屋敷を包囲し、ガラシャを捕まえようとしました。
三成は家康との戦いに備え、仲間を増やすために武将らの身内を人質にとり、従わせようとしたのです。
そして、忠興の不在を見計らって三成はガラシャの誘拐を試みましたが、ガラシャは激しく抵抗し、人質になって忠興に迷惑をかけるくらいなら潔く死んだほうがマシと自害したのです。
ただし、ガラシャはキリスト教の洗礼を受けていたので自殺は許されず、細川家の小笠原秀清に自分の胸を槍で貫かせ死んでいます。その頃、忠興は上杉征伐に向けて会津へ進軍中でした。
屋敷で護衛についていた小笠原秀清、河喜多石見、祐直の三人でガラシャの後を追って自害しようと話し合い、河喜多石見が屋敷に火を放ったあと秀清と共に切腹。二人の介錯を務めた田辺六左衛門も焼死しました。
祐直は・・・というと、裏門から一人で脱出。一説によると、屋敷を包囲した敵方の鉄砲隊のなかには教え子たちが多くいたそうで、その教え子たちが祐直に逃げてほしいと懇願したとされています。
後日、一人で逃げ出した祐直を「この卑怯者が!」と激しく𠮟責し、追放(または切腹)を言い渡しますが、家康が祐直の鉄砲術を見込んで仲介に入り、「そんなに怒るなよ、祐直は私が預かろう」と忠興を説得したそうです。
家康にピンチを救われた祐直は徳川幕府の鉄砲術指南となり、国友鉄砲鍛冶の運営に尽力しました。その後は、尾張清洲の松平忠吉や名古屋城の徳川義直に仕え、大名や武将らに鉄砲を指南しています。
祐直に鉄砲術の指導を受けた者は、家康をはじめ、松平忠吉や徳川義直、徳川秀忠や伊達政宗、浅野幸長など大勢いました。そして最期は、駿府城の城下で1611年に他界しました。
技とは"工夫"と"応用"なり!
画像:稲富流砲術秘伝書(大阪城天守閣)
さて、ほかの武将のように祐直については大げさな武勇伝は目立ちませんが(というかネガティブなエピソードも結構ある)、とはいえ凄腕の鉄砲使いとして一目置かれていたことは様々な文献や資料で分かっています。
言い換えるなら、超人的なエピソードではなく現実的な逸話が多いということです。たとえば、祐直の能力の高さを表すエピソードとして、こんな話があります。
ある日、清洲藩主の松平忠吉(家康の四男)は鉄砲の稽古のために祐直の弟子と狩りに出かけました。ところが、鳥たちは神経が過敏になっており、銃口を向ける間もなく直ぐに飛び立ってしまうのです。
これでは訓練できないとイライラする忠吉に弟子が、「こうやって鉄砲を持ち歩くのも一つの手です」と言い、鉄砲に文箱を縛り付けて歩いてみせました。すると、鳥たちは気に止まったまま動かなかったのです。
そして、弟子は銃口を上に向けたまま歩き、通り過ぎるように見せかけて枝に止まっている鳥を打ち落としました。すぐさま忠吉は清洲城に戻り、祐直を呼びつけて問い詰めました。
「お前の弟子は俺にスゴ技を見せたけど、あんな技は習っておらん!さては秘伝を隠しているだろ」そう忠吉が言うと祐直は、「弟子は習った技を応用したんです。高い技術力をもっていても応用できなければ意味を成さないのです」と答えました。
続けて祐直が、「技とは"工夫"です。身につけた技術を工夫して応用することで初めて技になるんです」そう言うと、忠吉は深く聞き入って今までよりも熱心に鉄砲の訓練に取り組んだそうです。