やっと最後の主君に辿り着く
画像:福島正則の肖像(東京国立博物館)
才蔵は、美濃の斎藤道三に仕え、次に信長の家臣である柴田勝家から明智光秀へ、そのあとは織田信孝から森長可、秀吉の甥にあたる秀次から前田利家へと転々と主君を変えています。
現代に例えれば何回も転職を繰り返しているのと同じで、なかなか定職に就いていないので通常であれば周囲からネガティブな印象をもたれてしまうケースが多いです。それは戦国時代も同じ。
主君をコロコロ変えるなんて信用できないな・・・と疑わてしまっても当然。しかし、才蔵の場合は強くて賢いという評判が知れ渡ってましたし、ネガティブどころか大歓迎ムードでスカウトされるわけです。
なぜ主君を頻繁に変えていたのか明確な理由は解明されていませんが、秀次のエピソードを見る限り、敬意を払うに値しない(要するに尊敬できない)主君には仕えたくなかったのではないでしょうか。
そんな才蔵にも、やっと忠義を尽くせる主君が見つかります。才蔵が最後に辿り着いた主君は、秀吉に仕える福島正則でした。史料によると、正則が伊予(愛媛)に11万石を与えられた1587年あたりから仕えています。
正則は情に厚く義理深く、少し頑固で無鉄砲なところもありますが、才蔵のハートを動かす魅力があったのでしょう。そして、しばらくして1590年の小田原征伐では先頭に立って北条氏規が守る韮山城に突撃し、奮戦しました。
関ケ原での英雄伝
画像:関ヶ原合戦図屏風の中に描かれている可児才蔵(関ケ原町歴史民俗資料館)
秀吉の死後、関ヶ原の戦いが勃発。そして、本戦(岐阜県不破での合戦)が始まる少し前、東軍に属していた正則は才蔵に先鋒隊を任せ、本戦の前哨戦となる岐阜城の戦いで西軍の湯原源五郎を討ち取ります。
しかし、先鋒隊といえど大将の突撃命令が出るまでは出撃してはいけませんでした。でも、勝手に突撃した才蔵は、正則から厳しく叱られて自宅謹慎を言い付けられ、合戦への参加を禁止されてしまうのです。
関ヶ原の戦いは東軍が勝利し、家康が首実験を行う際に才蔵も正則と共に同席していました。すると、そこへ家康がやってきて、「お前が才蔵か、評判は聞いているよ」と褒めました。
正則が「殿、実は才蔵は謹慎中で本戦には参加していないんです」そう言うと、すぐさま才蔵が「いえ、正則さんに内緒で本戦に参加しました」と家康に言いました。
さらに、「おそらく関ヶ原の本戦で最も多くの敵を討ったのは私です」と才蔵は言い放ったのです。すぐさま戦場を確認させると、口に笹の葉を入れた首が17つ転がっていたそうです。
首実験の結果、確かに才蔵が一番の武功を挙げていたとか。謹慎中であっても、笹の才蔵は健在だったわけです。
怖いものなしの才蔵にも最期の日が訪れます。関ヶ原の戦い後、49万8000石を与えられた正則は広島藩の初代藩主となり、才蔵も引き続き正則に仕え、広島市で余生を過ごします。
才蔵は愛宕権現(あたごごんげん)を深く信仰しており、日頃から「俺は愛宕権現の縁日に死ぬ」と周囲に言っており、6月24日は身を清めて具足(甲冑)を身につけ床机に腰掛けていました。
そして、1613年の6月24日、才蔵は具足を身につけ床机に腰掛けたまま亡くなっていたそうです。死因は病死なのか寿命なのか定かではありませんが、自然死だったことは確かなようです。
※縁日・・・関係の深い日