気持ちは10代のまま
画像:福山城
城主になっても落ち着きがなく、風変わりで派手な格好や奇抜な言動が目立っていたようです。しばらく、のんびり暮らしていると、勝成をワクワクさせる報告が入ります。豊臣秀頼を征伐するために家康が挙兵するという知らせでした。
そして、大阪の陣に参戦した勝成は徳川の重臣から「一人で勝手に突撃したらダメですよ」と注意を受けますが、思いっきり無視して誰よりも早く敵兵を討ち、一番槍を挙げてしまうわけです。
もう50歳を超えているのに、いくつになっても気持ちは10代のまま。
ちなみに、このとき勝成の部隊には宮本武蔵(当時31歳)がいたそうで、備後福山藩の史料・大坂御陳御人数附覚に「武蔵は水野勝成に従って大坂夏の陣に参戦した」という記録が残っています。
大阪夏の陣から数年後、宮本武蔵は水野家の家臣・中川志摩之助の息子を養子にしていることから、少なからず勝成の信頼を得ていたのではないかと考えられます。
一説によると、勝成の部隊は大阪夏の陣で最も激戦を繰り広げたとされており、豊臣軍の後藤又兵衛、薄田兼相、真田幸村、明石全登が率いる部隊と激突し、このときも勝成は武功を挙げたとのこと。
大坂夏の陣のあと、数ある大名や武将がいる中で勝成は「戦功第二(大阪の陣での武功ランキング2位)」に選ばれ、大和郡山(奈良県大和郡)6万石が与えられました。
そして天下一の傾奇者は、のちに備後福山(広島県福山市)の初代・福井藩主となるのです。
いくつになっても傾奇者
画像:賢忠寺「水野勝成の像」(国立国会図書館)
家康が江戸に幕府を開くと、幕藩体制が成立し、各地に藩が置かれ、幕藩体制に伴って勝成は広島県福山市に備後福山藩を起ち上げます。
豊臣の時代が終わったとはいえ、四国や九州には家康に反感を抱いている旧豊臣の家臣も多かったため、家康は見張り役として勝成を福山に置いたという説もあります。
勝成は徳川家から「日向守」という役職を与えられますが、このときのエピソード(逸話)が興味深い内容です。
当時、日向守は最も人気のない役職でした。なぜなら、本能寺の変で信長を討った明智光秀が日向守だったからです。
日向守に任命された勝成は、「いいじゃないか!実に面白い。裏切者の役職なら俺が日向守の歴史を塗り替えてやる」と豪快に笑い飛ばし、むしろ喜んでいたとか・・・。
江戸時代の勝成は戦国時代とは打って変わり、藩の内政に力を注ぎ、当時としては珍しい「武士の上下関係を無くす」という取り組みを藩内で行いました。
また、戸田川の土木(治水工事)でも手腕を発揮し、現在の「福山」という地名をつけたのも勝成です。さらに、佐賀で起きた島原の乱(1637年)には75歳で参戦しています。
「九州の大名で討伐軍を結成して」と3代目の将軍・徳川家光に指示されていたにも関わらず、広島から参陣した勝成。もちろん、唯一勝成だけが九州の外から参陣しています。
でも、勝手に加わったわけではありません。軍事の相談役として呼ばれていたのですが、勝成は息子の勝俊も動員し、「お前が真っ先に敵陣の本丸に乗り込んで敵を討て!」と渇を入れ、期待に応えるように勝俊は奮戦したそうです。
島原の乱が終わると勝俊に2代目を譲り、隠居しました。勝成は88歳で他界しますが、その1年前には酒の席で鉄砲を撃って的に命中させ、周りの者を驚かせたという逸話も残っています。この男、生まれて死ぬまで傾奇者なんです。