孫一の銃の腕前は?
画像:ぎふ信長まつり「鉄砲隊・模擬射撃の実演」(岐阜市観光課)
さて、孫一が使用していたとされる火縄銃は8ミリ~9ミリの口径で、命中率を保つための射程距離は最大で150メートル前後。40メートル~50メートルで80%、60メートルを超えると命中率が下がるようです。
そして、威力は40メートルの距離から撃てば厚さ1ミリの鉄板を貫通し、25メートルの距離なら厚さ24ミリのヒノキ板を貫通するとされ、近距離であれば致命的な破壊力をもっていたことが分かります。
孫一の場合、相当な腕前だったので、80メートルからの射撃でも80%超えの命中率を可能にしていたと考える研究者もいるようです。つまり、かなり危険な男だったんです。
ちなみに、火縄銃の中でも優れた性能をもつ「種子島」が200メートルの射程距離で、40~50メートルほどの距離から撃てば甲冑を貫通し、相手を殺傷できます。
しかし、性能が高い火縄銃にも欠点があります。連発式の銃ではなく、一発撃てば次の弾を込め終わる(装填)までに30秒前後かかり、着火が必要なので雨の日や湿気が多い日は火が付きにくいので使用できませんでした。
また、照準もないのでテクニックが必須です。次の弾を込め終わるまでに30秒も必要なので、もし外してしまうと敵兵が近づいてきて長槍で一突き。まさに命がけの覚悟で引き金を引かなければなりません。
殺傷に必要な距離が50メートルの場合、一般の成人男性なら7秒前後(100メートルを15秒と計算)で走れる距離ですし、一発を外して次まで30秒というのは致命的ですね。
射程距離ギリギリの200メートルから撃ったとしても、外してしまえば足の速い命知らずの敵兵なら鉄砲隊に接近して襲撃できます。戦国時代の火縄銃には、手際の良さと命中させるテクニックが求められたんです。
生きる伝説
画像:落合芳幾・画「鈴木孫一の錦絵」(東京都立図書館)
信長が石山本願寺に勝利するまで10年の月日を費やしていますが、雑賀二組との戦いに手を焼いたのも原因の一つと考えられます。
その証拠に信長は、ただの助っ人として軽く見ていた雑賀二組に対して本格的な討伐を掲げ、10万を超える大軍で孫一に攻めかかったのです。
天下に知れ渡る優れた鉄砲隊でも、うんざりするほど敵がいれば多勢に無勢で苦戦を強いられてしまいました。要するに、撃っても撃っても10万の大軍が怒涛の勢いで押し寄せてくるからです。
雑賀二組は奮戦しましたが敗北。降伏し、その後の孫一は秀吉に仕えて鉄砲隊の養成を任されていたようで、雑賀衆とは行動を共にしていません。
そして、信長の死後、秀吉は「検地」に取り掛かり、米の収穫高に応じて税金を納めるというシステムを全国の町や村に義務付けました。これに猛反発したのが雑賀衆でした。
あわや一揆に発展しそうな状況になりましたが、家康と秀吉が対立して小牧長久手の戦いが勃発し、雑賀衆は徳川軍に加勢し、孫一は秀吉に加勢。
ところが、家康と秀吉は和睦してしまい、取り残された雑賀衆は秀吉の10万の大軍に攻め滅ぼされました。とはいえ、秀吉は攻める前に孫一を雑賀衆のもとへ行かせ説得させましたが、雑賀衆は拒否。
また、孫一は雑賀衆のもとへ行く前に息子を人質として秀吉に預け、以降、その息子は豊臣家に仕えたとされています。
小牧長久手の戦いが終わった後の孫一の消息は不明ですが、生きる伝説として戦国時代に名を轟かせた鉄砲の達人ですから、ぜひともスカウトしておきたい人物ですよね。
・信長公記
・言継卿記
・真鍋真入斎書付
・ますをのすすき海士郡
・佐武義昌覚書
・紀伊国地士武功覚書
・七郡地士名寄
・大阪府全志
・太田城由来并郷士由緒記
・常山紀談
など様々な史料に孫一に関する記述はあるものの、未だ架空の人物である可能性も一部では疑われているようです。