なぜ足利義昭を殺さなかった?
画像:足利義昭像(等持院霊光殿)
1573年、いっそのこと足利義昭を討ち取ることもできたのに、信長は追放という形で義昭を排除しました。惨忍と呼ばれる信長が、なぜ義昭を殺さなかったのでしょうか。
いつの時代も、統治するうえで民衆や世論の反感を買うような事件は慎みたいもの。将軍を殺したとなれば、不信感や批判が集まるのは目に見えています。
畿内統一を成し遂げるために、そんな余計な問題を起こしたくなかったのでしょう。当時の信長は「外聞(世論)」という言葉を多く用いていたそうで、世間の反応を気にしていたことがわかります。
事実、義昭を攻めたときも朝廷の反応や京都の外聞を気にしており、天皇への奉仕や平民や商人のための政策などに力を入れるようになりました。
まるで乱暴者とは程遠い人物です。また、合戦を行う前は必ず家臣らを集めて協議し、「戦うべきか」「どのような作戦で勝率を上げるか」など決議をとってから決行してたようです。
つまり、勝手に物事を判断したり決めることはなかったということですね。
信長のブランディング力
画像:茶碗と茶筅(©D-matcha store)
信長が「茶の湯(茶道)」を好み、茶会を催し、「茶器(茶道具)」を集めていたことは有名な話。
なぜ、そこまで茶にこだわったのでしょうか。
信長は自己プロデュースと人心掌握の手段として茶の湯を用いたという見解が有力視されています。
当時、武功や戦功を挙げたものには領地や刀などを与えていました。しかし、領地が原因で争いが起こることもあり、これでは元も子もありません。
そこで考えたのが茶の湯。手柄を立てた家臣を茶会に呼んだり茶道具を褒美として与えました。
茶道具を貰って喜ぶの?と思ってしまいますが、めちゃくち欲しがったんですよ。
それもそのはず。信長は事あるごとに茶道具を家臣らに見せ、「これは一国に値する茶器だ」とか「どれだけ金を積まれても譲れないな」と言い聞かせて価値を刷り込んでいきました。
さらに、「織田の家臣であれば茶器の素晴らしさが分かるはずだ」と、家臣たちの欲求とプライドを高めました。
古くから貴族や上級の僧が茶を嗜んでいたという既成事実もありましたし、ブランディングするうえで茶器は手っ取り早かったわけです。
千利休は信長に茶道を教える一方で、茶器の鑑定人としての役割も担い、信長が「価値のある茶器」だと言い、それに対して千利休が「間違いない」とお墨付きを与えれば、価値が倍増。
今でも国宝や重要文化財に指定されている茶器は、ほとんどが安土桃山時代のものです。
土地や武器より茶器が欲しい
画像:南宋時代の珠光青磁茶碗(出光美術館)
信長は定期的に茶会を催して200点以上の茶道具を見せつけ、茶の湯が武家のステータスであることを促進しました。
褒美として茶器を一番最初に与えられたのは、1576年に安土城の建築で功績を挙げた丹羽長秀。「珠光茶碗」を貰った長秀は、さぞ嬉しかったでしょうね。
そして、自分で茶会を催したいときは信長の許可が必要で、これも家臣の意欲を高める一つになりました。
当時、茶の湯が名誉であることを物語る逸話として、次のようなエピソードがあります。
滝川一益は1582年に武田家(勝頼)を滅ぼした褒美に上野一国と信濃二郡を信長から与えられ、関東管領(関東の大名を統括する責任者)と、奥羽の美家や大名をまとめる役職も与えられます。
しかし一益は、がっかり。関東に移住したあと、「遠国にをかせられ候条、茶の湯の冥加つき候(こんな遠方に来てしまっては二度と茶が楽しめない」と手紙に記して嘆いたとか。
領地や官職より信長の茶器をもらうほうが名誉ある、そんな価値観が浸透していたんですね。
信長の人心掌握は見事に成功し、家臣らの意欲をコントロールしました。茶器に憧れを抱かせ、価値を植え付け、「欲しいなら頑張って働きなさい」という自発的な意欲の構図です。
異端児と呼ぶに相応しい男だった
画像:織田信長の坐像(岐阜城天守)
信長は日本舞踊や西洋文化にも熱心で、武力だけではなく教養を身にまとって自己プロデュースしました。西洋の装飾や習慣など、新しい文化を取り入れた信長は異端児と呼ぶに相応しい男。
そんな信長に憧れを抱き、カリスマ性が生まれ、絶対君主が築かれたわけです。
勝てる合戦の見極めや茶器を用いた人心掌握など、戦術、新しい価値のブランディング、部下の意欲促進において総合的にマネジメント能力が高かった人物と言えるでしょう。
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織田信長と豊臣秀吉のマネジメント能力(秀吉編)