石田三成の愚直な性格は「精神疾患」が原因だった?
画像:石田三成(東京大学史料編纂所)
石田三成を一言で表すと「馬鹿正直」で「不器用」な男。
それゆえ、「ひたむき」に「一生懸命」に己の信じる道を貫いた生き様は胸を熱くさせてくれます。
しかし、いくら不器用とはいえ、もう少し周囲と調和をとって上手く立ち回ることができたら"悲惨な結末"を迎えずにすんだのではないかと思うんですよね。
そこで今回は、天下人の側近まで努めた有能な三成が「なぜ上手く立ち回れなかったのか」について専門家などの見解を参考にしながら分析してみました。
非凡の忠臣
画像:秀吉と三成「出会い」の像(長浜駅前)
現在の滋賀県長浜市で生まれた石田三成は幼少期に観音寺で算術や教養を学び、14歳で羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、秀吉が全国を統一すると豊臣政権において五奉行の一人になるまで出世します。
秀吉が三成を召し抱えるきっかけとなった「三献の茶」は有名ですね。三成の名前が登場するのは一柳家記という史料が最初で、1583年の賤ヶ岳の戦いに関する内容が記されています。
その史料には、賤ヶ岳において三成は柴田勝家の軍を偵察する役目を担い、盟友の大谷吉継と共に先駈衆(先鋒)として出陣したことが書き留められています。
しかも、このとき三成は一番槍(最初に敵陣へ突撃する)の功績を残しており、秀吉から4万石の褒賞を与えられて近江水口城の城主になり、こうして三成の出世街道がスタートしました。
1584年に始まった検地(第一回目の近江国蒲生郡の太閤検地)では吉継と奉行を務め、翌年に秀吉が関白に就任すると三成は従五位下治部少輔(貴族に相当する位)に昇格しています。
まさに、非凡の忠臣。
秀吉の側近として秀でた才を果敢なく発揮した三成でしたが、周囲との調和が苦手で協調性に欠けるという一面もあり、上手く立ち回れず上司や同僚と衝突することも珍しくありませんでした。
そして、秀吉が他界した直後から、三成に対する風当たりは急激に強くなっていくのです。
※三献の茶とは?
滋賀県の観音寺を訪れた秀吉が坊さんにお茶を頼んだところ、当時、寺の小僧をしていた三成が三杯のお茶を出しました。これが世に言う「三献の茶」です。 喉の渇きを潤すために一杯目は茶碗いっぱいに注いだ「ぬるい」お茶を出し、二杯目は半分の量で「少し熱いお茶」を、三杯目は香りと安らぎを楽しんでもらうために小さな茶碗に「熱いお茶」を少し注いで出したそうです。 行き届いた心遣いに胸を打たれた秀吉は、すぐさま三成を自分の世話役として手厚く迎えました。 |
出典:天下人を虜にした心配り(月間朝礼)
三成の愚直な性格の根源
画像:アスペルガー症候群の「そうだったんだ!」がわかる本(西脇俊二・著)
周囲との調和が下手で、上手く立ち回れず無意識に敵をつくってしまう三成。その理由は、三成が「愚直」だったということが要因の一つとして考えられます。
愚直とは、正直すぎるあまり臨機応変な行動または対応ができない人を指す言葉ですが、もっといえば、馬鹿がつくほど真面目で空気が読めずに気が利かない人のこと。
このように揶揄や批判的な意味で使われる言葉でも、「一生懸命」や「ひたむき」な人に対する誉め言葉として用いられることもあり、愚直は良い意味と悪い意味の二つの性質をもっています。
思ったことを直ぐに言ったり、主君の秀吉にまで遠慮なく意見したりする一面もあった(太閤記)ようですから、良くも悪くも素直で馬鹿正直だったことは確かです。
生真面目で不器用すぎる人柄と、ひたむきに一生懸命に己の信じる道を生きた石田三成は、まさに「愚直」そのものと言えます。
では、有能な人物でありながら、なぜ三成は周囲との調和が下手で、上手く立ち回れなかったのでしょうか。ただ単に愚直で不器用だったからという理由だけでは片付けられません。
三成の人間性を分析するうえで、脳科学者の中野信子さんは興味深い見解を示しています。中野さんは三成について、「もしかしたらアスペルガー症候群だったのではないか」と話しています。
アスペルガー症候群とは、コミュニケーション障害や調和の欠如、興味や行動の偏りなど自閉症に似た特徴がみられる精神疾患の一種。
とくに、社会性・コミュニケーション・想像力の3つの領域において障害が生じると言われており、大きなくくりとしては自閉症に分類される精神疾患です。
ただし、自閉症とは違い、言語の未発達や知的レベルの遅れを伴わないことから表面上では健常者と変わりなく、「少し変わった人」「独特で変わり者」という印象を与えることが多いらしいです。
しかし、アスペルガー症候群の人は社会生活を送るうえで困難が生じるという点から、精神分野での治療が求められる疾患(心の病気)であることは間違いないそうです。
ここからは、アスペルガー症候群の特徴と三成の言動を照らし合わせて確認してみましょう。
なんでそんなに嫌われた?
画像:狩野探幽・画「徳川家康」(大阪城天守閣)
秀吉は三成を豊臣政権の中枢に置いたわけですが、本格的に政権が機能し出すと、いわゆる"武闘派"の武将らから嫌われるようになり、なかでも加藤清正や黒田長政たちとの仲は最悪でした。
1598年9月18日に秀吉が没すると、天下取りに動いたのが徳川家康。豊臣家の存続に危機を抱いた三成は次第に家康と対立しますが、大老の前田利家のおかげでなんとか均衡が保たれていました。
しかし、利家も没し、いよいよ家康の独壇場となっていきます。内々に反家康の派閥をつくろうとしている三成の動きを知った清正や長政らは大胆にも三成の暗殺を決行。
豊臣政権において頭脳派の五奉行と武闘派の対立は少なからずありましたが、清正や長政がターゲットにしたのは三成ただ一人。相当な憎しみがないと殺そうとは思わないわけです。
間一髪のところで家康が仲介に入り、暗殺は未遂に終わりました。騒動の処分として三成は五奉行を解任され、佐和山城(滋賀県近江市)での謹慎生活を送ることになります。
なぜ、そこまで憎まれるようになったのか、単純に嫌われることをしたからです。その直接的な出来事となったのが文禄・慶長の役(朝鮮出兵)でした。
朝鮮出兵で清正や長政ら武闘派の武将は第一線で戦い、三成は物資の輸送や敵の偵察などを指揮する後方支援。つまり、戦闘には加わらない比較的に安全な仕事。
そして、三成の重要な任務の一つが秀吉への状況報告でした。違反やサボりなど、ちょっとしたことでも見逃さず報告していたので、そのおかげで秀吉から怒られる武将が結構いたようです。