決して仲間を見捨てたりしない
画像:月岡芳年・画「朝鮮征伐大評定ノ図」中央から左に立花宗茂(東京都立図書館)
また、朝鮮出兵(文禄の役)の際には朝鮮連合軍(明・朝鮮の連合軍)と漢城の近く碧蹄館(ペクチュグァン)で激戦を繰り広げ、圧倒的に兵力が少なかったにも関わらず宗茂は先鋒隊を志願し、奮戦し、勝利しています。
・小西行長や宗義智らが朝鮮連合軍に攻められ平壌城から撤退。
・宗茂は黒田長政、小早川隆景らと共に平壌城と漢城の中間地点で抗戦。 ・平壌城が落ちたことで豊臣軍は漢城に総撤退。 ・総大将の宇喜多秀家と共に軍事会議を開き、宗茂は3000の兵で先鋒隊を志願。 |
この時点で豊臣軍は4万、対する朝鮮連合軍は15万を超える圧倒的な兵力差。
・宗茂の家臣・十字伝右衛門が率いる500の兵が朝鮮連合軍の先鋒隊に正面から突撃し、打ち破る。
・しかし、十字伝右衛門は戦死。 ・宗茂は2000の兵を率いて静かに接近し、不意をつく戦法で側面から突撃。 ・朝鮮連合軍の兵2000人余りを討ち取る。 ・豊臣軍3万が合流したが、宗茂は兵を率いて山の上に登り、戦場を観察。 ・豊臣軍が苦戦し撤退を開始。 ・豊臣軍を追撃する朝鮮連合軍が湿地帯に入った瞬間、宗茂の部隊が突撃。 ・宗茂の奇襲に朝鮮連合軍は驚き、好機とみた豊臣軍は一斉攻撃を開始。 ・結果、15万の朝鮮連合軍に大勝利。 |
意外と知られていませんが、宗茂は、とんでもない武功の持ち主なんですよね。
画像:月岡芳年・画「朝鮮征伐大評定ノ図」
2回目の朝鮮出兵(慶長の役)は、秀吉が他界した知らせを聞いて朝鮮から総撤退。帰国する前に豊臣軍の武将らは釜山に集合したわけですが、小西行長が敵地から抜け出せずに孤立するという悲劇が起きます。
無駄な争いを避けるためにも置いて日本に戻るしかないと主張する面々のなか、宗茂は「小西を助けに行く」と名乗り出て、島津義弘や寺沢宏高も賛同し、朝鮮連合軍の水軍を撃破(露梁海戦)し、小西行長の救出に成功しました。
このとき、宗茂は31歳。なんとも頼りになる男なんですよね。
宗茂の人徳
画像:立花宗茂の肖像(福巌寺)
そんな宗茂に人生最大の転機が訪れます。秀吉の死後、勃発した関ヶ原の戦いです。忠義の武将、宗茂は西軍に加勢して徳川家康に敵対。西軍は敗北し、宗茂は浪人になってしまうんです。
しかし、宗茂の人柄の良さや忠義を重んじるところ、誠実で硬派な性格に惹かれた武将も多く、加藤清正をはじめ、他の武将や大名が支援し、なんとか苦しい浪人生活を乗り越えます。
1606年、その動きに感銘を受けた徳川秀忠は宗茂の人徳と過去の働きを評価し、奥州棚倉(福島県)1万石を宗茂に与え、1620年には旧領の筑後柳川10万9000石が与えられ、大友家を再興しました。
関ヶ原の戦いで西軍に加勢した武将のなかで、旧領の復帰を許されたのは立花宗茂だけ。相当な信頼がないと無理ですから。その後、徳川家光に仕え、家光から親のように慕われ厚遇を受けたとされています。
静かに隠居生活を送るかと思いきや、なんと72歳で島原の乱に出陣し、猛将の再来と恐れられたそうです。そして1642年、江戸にて他界しました(76歳死去)。