マンガのような暴れっぷり
画像:戦国城下町シミュレーションしろくろジョーカー「森長可」(© bushiroad )
さて、そんな長可が森家を継いだのは13歳(1571年)でした。父の可成と兄の可隆が1570年に他界し、わずか13歳で森家の家督を継承。そして、父と同様に信長の家臣として仕えることになります。
その際、信長から「長」の一文字を授かり、織田家への忠誠を誓ったのです。当時の習わしとして、主君の名前の文字を拝領するのは最高の名誉とされていたので、かなり可愛がられていたようですね。
1572年には秀吉や丹羽長秀などと一緒に織田家が発行する文書に署名していることから、すでに14歳頃から家臣の一員として活動に参加していたことが考えられます。
長可の初陣は1573年の第二次長島一向一揆攻めでしたが、このときは同行するのみで見学。森の家臣である各務元正は武功を挙げ、元正の勇姿を目の当たりにした長可は興奮したそうです。
翌年(1574年)の第三次長島一向一揆攻めでは織田信忠が軍を率い、長可も元正や守家の兵を率いて出陣。やる気に満ち溢れていた長可が今か今かと開戦を待っていました。
しかし、敵勢も守りを固めている状況で忠信は突撃のタイミングを伺っていました。すると長可は許可を取らずに黙って一人で敵兵に突っ込み、暴れまくって一揆衆を混乱させるという天性の破天荒ぶりを発揮。
敵陣の慌ただしさに気づいた信忠は、「どうした?んっ?もしかして、あそこで暴れているの長可じゃない?」と驚き、慌てて突撃を命令。元正も、森家の跡継ぎを死なせてはいけないと慌てて突撃。
長可は27の首を持ち帰り、忠信や元正は見事な働きぶりに感心したそうです。とはいえ、大将に黙って単騎で突撃するのは違反でしょうし、もし死んでいたらと考えると・・・やっぱり長可はクレイジーな武将なんですよね。
その後も甲州征伐における高遠城の戦いや信濃の一揆などで暴れまくり、ことごとく敵を撃沈。信長の時代には若くして20万石を与えられ、同世代の中では断トツの高待遇だった長可。
本能寺の変で信長が他界したあと、小牧長久手の戦いで長可も戦死しましたが、家康と秀吉どちらも長可の死を聞いて一安心したそうです。ちょっとかわいそうな気もしますが、これまでの素行の悪さを考えると当然かもしれませんね。
クレイジーといえど、腕っぷしが強かったのは確か。スカウトするなら、戦力として放っておけない武将です。