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歴史年表まとめ!「奈良時代」の日本では何が起きていた?(後編)

746年 藤原仲麻呂の乱

歴史年表まとめ読み!「奈良時代」の日本では何が起きていた?(後編)
画像:藤原仲麻呂の屋敷跡

光明皇后(聖武天皇の正妃で藤原不比等の娘)の甥である藤原仲麻呂(武智麻呂の子)は、淳仁天皇(47代目・天武天皇の孫)の即位に尽力して惠美押勝という名を賜ります。

その結果、惠美押勝は朝廷内で権力を高めて政治を行いますが、孝謙上皇(46代目の天皇)から厚い信頼を寄せられていた僧侶の道鏡が頭角を現し始めると、二人は対立しました。

仲麻呂は挙兵して道鏡を討とうとしましたが敗北し、他界。孝謙上皇から溺愛されていた道鏡に対して反乱を起こしたことで仲麻呂は誅殺されました。

769年 宇佐八幡神託の事件

歴史年表まとめ読み!「奈良時代」の日本では何が起きていた?(後編)
画像:御祭神絵巻「道鏡」(護王神社)

聖武天皇(45代目)の娘・孝謙上皇(46代目)は758年に皇位を淳仁天皇(47代目)に継承させ、淳仁天皇は藤原仲麻呂の乱を平定後に退位し、764年に称徳天皇が48代目の天皇に即位します。

※孝謙上皇と称徳天皇は同一人物であり、孝謙上皇が重祚して称徳天皇となった。重祚(ちょうそ)とは歴代の天皇が再び即位すること

僧侶の道鏡は称徳女帝から太政大臣禅師と法皇の称号を与えられ、藤原氏の権力を上回って実権を握り、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだったようです。

そして、皇族の歴史を揺るがす大事件が勃発します。道鏡は、宇佐八幡の神託(宇佐八幡の神のお告げ)と称して次の天皇にることを思いつきます。

道鏡は称徳天皇に「私が天皇になれば国は安泰するという神のお告げがあった」と伝え、あろうことか称徳天皇は「神様が言っているなら安心だね」と納得。

廷臣(朝廷の家臣)らにも公表し、本気で道鏡を49代目の天皇にしようとしたわけです。

称徳天皇には子供がおらず天皇家や藤原氏に愛着がなかったという背景もありましたが、いくら可愛がられているとはいえ、天皇家以外の者が皇位を継ぐのは許されないと廷臣らは猛反発。

そんななか、和気清麻呂(朝廷に仕えていたが宇佐八幡の神職でもあった)が、別の神託(神のお告げ)をもって称徳天皇に謁見します。

上機嫌な称徳天皇に清麻呂は、「道鏡を排除すべきという神のお告げがありました」と報告。

これに激怒した称徳天皇は清麻呂を大隅(鹿児島県霧島市)に流刑(島流しの刑)とし、道鏡は大隅に連行される清麻呂を追って暗殺しようとしましたが失敗に終わりました。

邪魔者がいなくなって一安心の道鏡にダイナマイト級の悲報が届きます。

・・・770年に称徳天皇が崩御(他界)。後ろ楯を失った道鏡は一瞬で失脚し、朝廷から追い出され、皇位継承は夢となって消えました。

称徳天皇の溺愛を受け、大出世を果たし、それだけでは足りず皇位が欲しくなり、神のお告げと称して天皇になろうとした道鏡。すごいけど、かなりクレイジーですね。

770年 光仁天皇の即位

歴史年表まとめ読み!「奈良時代」の日本では何が起きていた?(後編)
画像:孝謙天皇・称徳女帝(住吉広保・画)

藤原氏が天武系統と繋がりをもち権力を強めていったのは持統女帝(41代目)の頃からで、皇族や藤原氏に無縁な道鏡に皇位継承させようとした称徳女帝(48代目)は藤原氏にとって邪魔な存在でした。

しかし、宇佐八幡神託が起きた翌年(770年)に称徳女帝は崩御(病死)し道鏡は朝廷から排除され、藤原氏の存続を脅かす悩みの種はひとまず解決します。

称徳女帝の没後、藤原氏は天智系統の光仁天皇(49代目)の即位に尽力し、これをもって天武系統の皇位継承は称徳女帝で最後となりました。

光仁天皇は天智天皇(39代目)の孫であり、その後の皇位継承において天武系統は除外され、天智系統の皇位継承が続くことになります。

784年 長岡京に都が移る(長岡京遷都)

歴史年表まとめ読み!「奈良時代」の日本では何が起きていた?(後編)
画像:桓武天皇(延暦寺所蔵)

781年に光仁天皇(49代目)が崩御すると、桓武天皇が50代目の天皇に即位。そして、皇位継承から3年後の784年には都を平城京から「長岡京」に移しました(長岡京に遷都)。

遷都の理由として、天武系統が築き上げた奈良仏教の思想を払拭することが要因とされています。

桓武天皇は長岡京に都を移すと仏教の改革にも取り組み、鎮護国家のための仏教(奈良仏教)から、神格としての信仰的な仏教(平安仏教)に日本は転換していくことになります。

※鎮護国家とは「仏教には国を守護・安定させる力がある」という思想のもと築かれる国家
※神格としての仏教とは「神聖な領域の仏教を粗末に扱ってはならない」という思想

しかし、遷都の翌年(785年)に長岡京で都の造営を指揮していた藤原種継が暗殺され、その後も政治の統制が上手く行われないなどの混乱が続き、わずか10年で長岡京は破綻。

桓武天皇によって再び遷都が行われ、都を長岡京から「平安京(京都府)」に移しました。

奈良時代のまとめ

歴史年表まとめ読み!「奈良時代」の日本では何が起きていた?(後編)
画像:平城宮跡の朱雀門

さて今回は、奈良時代のポイントを年表形式でおさらいしましたが、流れに沿って出来事を見ていくと聞き覚えのある言葉が多く登場する時代ですよね。

歴史の移り変わりを観測的にみると、藤原氏の存在は大きいと言えます。

平安時代の藤原道長・頼通(北家)の栄華は、荘園を拡大し、外戚で天皇との関係を深めたり、そうして奈良時代に強い基盤を築いた祖先たちの上に成り立っているのです。

こうやって奈良時代の歴史を振り返ると興味深い出来事も多いので楽しいですよね。ぜひ、参考にしていただければ幸いです。

<遷都の流れ>
●710年・・・元明女帝(43代目)が都を藤原京から「平城京」に移す
●784年・・・桓武天皇(50代目)が都を平城京から「長岡京」に移す
●794年・・・桓武天皇が都を長岡京から「平安京」に移し、奈良時代が終わる
以降、794年から「平安時代」が始まった

<天皇の足跡>
●707年・・・持統女帝(41代目)の娘である元明女帝が43代目の天皇に即位
(なお、元明女帝の即位は藤原鎌足の二男・藤原不比等の尽力による影響が強い)

●715年・・・44代目の天皇に元正女帝(文武天皇の姉)が即位
●724年・・・45代目の天皇に聖武天皇(文武天皇の息子)が即位
●749年・・・46代目の天皇に孝謙上皇(聖武天皇の娘)が即位
●758年・・・47代目の天皇に淳仁天皇(天武天皇の孫)が即位
●764年・・・48代目の天皇に称徳天皇(聖武天皇の娘)が即位
(称徳天皇の崩御をもって天武系統の皇位継承は途絶えた)

●770年・・・49代目の天皇に光仁天皇(天智天皇の孫)が即位
●781年・・・50代目の天皇に桓武天皇(光仁天皇の息子)が即位

※孝謙上皇と称徳天皇は同一人物であり、孝謙上皇が重祚して称徳女帝天皇となった。重祚(ちょうそ)とは、一度退位した天皇が再び即位すること

<主な出来事>
●710年・・・平城京遷都(奈良時代の始まり)
●712年・・・古事記の成立
●720年・・・日本書紀の成立
●723年・・・三世一身法を発布
●729年・・・長屋王の変。光明子が光明皇后となる
●741年・・・国分寺建立の詔
●743年・・・大仏造立の詔
●743年・・・墾田永年私財法を発布
●746年・・・藤原仲麻呂の乱
●769年・・・宇佐八幡神託の事件
●784年・・・長岡京遷都
●794年・・・平安京遷都(奈良時代の終わり)

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