犯罪に遭遇したら原則自力で犯人を捕まえろ!塵介集
次に紹介するのは、奥州の伊達稙宗(政宗の祖父)が制定した分国法「塵介集」です。
この分国法に見られる特徴は、鎌倉時代に制定された「御成敗式目」から非常に大きな影響を受けているということでしょう。この法律は優れたものとして中世の社会に広く浸透していましたが、戦国期になると実情とそぐわない部分も出てきていました。
そのあたり、塵介集では知恵をしぼって御成敗式目と現状のすり合わせを行おうとしている形跡も確認できます。法全体としては完成度が高いとはいえないものの、戦国時代の社会を知る上では非常に有用な史料です。
この分国法で興味深い内容は、犯罪に遭遇した場合の対処方法でしょう。内容からは、
「犯罪に遭遇した場合は原則自分で証人(犯人)を捕らえるように!」
と読み取ることができます。
そもそも戦国時代に横行していた「盗み」などの犯罪被害に遭った場合、伊達家がその被害を捜査してくれるということはありませんでした。そこで被害者は、自ら行動して証人(もしくは犯人)を自力で拘束して伊達家に引き渡さなければならなかったのです。
現代からすると信じられない法律ではありますが、当時は被害者本人が加害者を直接処刑することも珍しくなく、「引き渡せばこちらで審理する」と明言されているだけ近代的なのです。難しく言えば、「裁判権」は伊達家側に委ねられているわけですからね。
家臣の座る場所で争いを起こすな!甲州法度之次第
続いて、恐らく分国法でも一番の知名度を誇る、武田氏の制定した「甲州法度之次第」を紹介します。
この分国法は信玄の時代につくられましたが、実際の法制定に関しては彼のブレーンたちが取り仕切っており、信玄の名はあくまで最後に名付けられたに過ぎません。
主な特徴としては、先ほど触れたように仮名目録からの影響が非常に強く、同法からの引用が目立つ点でしょう。しかし細かな点を突き合わせないで引用したばかりに、非常に怪しい条文が生まれてしまったのも事実なのです。
それは「座る場所」に関する条文で、
「家来が武田の館で座る場所について、1~2名を固定するほかは争いを起こしてはならない」
というものでした。
そもそも当時の武将たちは格式にうるさく、座る位置をめぐって喧嘩が勃発していたことは容易に想像できます。その証拠に今川家にも武田家にも同じ条文が存在するわけですが、面白いのはここでいう「1~2名」が具体的に誰なのか全く示されていないという点です。
ちなみに元ネタとなる仮名目録では「朝比奈」「三浦」と個人名が当てられていました。恐らく、武田家に輸入した際に個人名をそのまま使うわけにはいかなかったので曖昧にした結果、条文そのものがよく分からなくなってしまったのです。
まとめ:なぜ分国法は必要とされたのか
ここまで戦国大名が制定した「面白い分国法」の中身を紹介してきました。そこで最後に、「そもそもなぜ分国法を制定する必要があったのか」という点について解説をしてみたいと思います。
その答えとして、文中でも示してきた「自力救済」、つまり「自分の力でものごとを解決すること」を否定する必要があったということがいえます。大名の立場としては、家臣らを支配する際に自力で物事を解決させるのではなく、裁判というシステムを通じて事態の収束を図りたかったのです。
こうすることで、「ものごとを解決できる大名」に権力を集中させ、ある種中央集権的な体制を築くことを目論んだのでしょう。
しかし結論からいえば、ここで紹介した「朝倉」「今川」「伊達(稙宗はクーデターで失脚)」「武田」は、戦国後期になると滅亡の道をたどっていきました。その理由として、戦国の世で「法律」は重要視されず、冒頭で示したような「力こそ正義」という考え方が時代に合っていたためでしょう。それゆえに、現代から見れば法をもたない「無法者」の織田信長や羽柴秀吉が天下を掌握していったのです。
では分国法が歴史に残したものはなかったのか。結論からいえばそんなことはなく、江戸幕府が成立した近代以降の法律には、分国法と同じような発想のものが多くみられます。つまり分国法という発想そのものが間違っていたわけではなく、法制度そのものが時代に合致していなかった、と考えるべきなのでしょう。