もし私が敏腕なヘッドハンターなら戦国時代で絶対にスカウトしたい家臣たち「先鋒隊・鉄砲隊」編
猛将・知将など、数々の名将を生み出した戦国時代。
たとえば、尾張三英傑の信長・秀吉・家康をはじめ、謙信や信玄、北条や毛利、島津や最上など、戦国時代において「主君」と呼ばれるトップリーダーたちは、必ずと言っていいほど有能な家臣を従えています。
そこで前回に引き続き、「もし私が敏腕なヘッドハンターなら」と題して今回は「先鋒隊(先駆)」と「鉄砲隊」にスカウトしたい戦国武将を選抜しました。
今回は「先鋒隊・鉄砲隊」編
前回の「主力部隊」編では、名だたる武将の中からトップクラスの"猛将"8人を選抜しましたが、合戦の先陣を切る先鋒隊や、主力部隊の援護となる鉄砲隊も欠かせない戦力です。
水野勝成(先鋒隊)
画像:正子公也・画「水野勝成の等身大屏風」(刈谷市総合文化センター)
すでに16歳で首級(敵を討ち褒賞や昇級を得る)を挙げ、まるで不死身のごとく敵軍に突っ込み超人的な槍さばきで暴れまくったといわれる水野勝成。
生没 | 1564年生まれ 1651年死去 |
出身 | 刈谷、または碧南、岡崎(いずれにしても愛知県) |
死因 | 福山城内において88歳で死去 |
主君 | 徳川家康から織田信長、織田信雄から仙石秀久 |
豊臣秀吉から佐々成政、黒田官兵衛から小西行長 | |
加藤清正から立花宗茂、三村親成から徳川家康 | |
徳川秀忠から徳川家光 | |
親族 | 父:水野忠重 息子:水野勝俊 妻:良樹院 |
特徴 | 自由気まま 猛将 さすらい 戦国一の傾奇者 |
何回も主君を変えた 落ち着きがない 先陣をきりたがる |
愛知といえば信長や家康、秀吉が一番に思い浮かぶでしょうが、勝成も愛知出身の戦国武将です。水野忠重の子として生まれ、勝成と家康は従兄弟になります(家康の母の叔父が忠重)。
16歳で参戦した第二次・高天神城攻め(武田勝頼と徳川家康の戦い)では徳川軍の一員として暴れまくり、多くの首級を挙げ、信長から感状を与えられるくらい腕っぷしが強かったようです。
小牧長久手の戦いでは父の忠重から「危ないし品がないから・・・(続きはコチラ)
山中鹿之助(先鋒隊)
画像:山中鹿之助の銅像(富田城跡)
鹿之助という名は通称で、本名は山中幸盛。実父の山中満幸は鹿之助が1歳のときに他界したとされ、母のなみが女手一つで育てたといいます。そのため、かなり生活は苦しく、貧しい幼少時代を過ごしたそうです。
生没 | 推定1545年生まれ 推定1578年死去 |
出身 | 推定、出雲国富田庄(島根県安来市) |
死因 | 毛利氏の家臣・福間元明に謀殺された |
主君 | 尼子義久から尼子勝久 |
親族 | 養父:亀井秀綱 父:山中満幸 母:なみ 息子:山中幸元 |
特徴 | 尼子三傑 山陰の麒麟児 三日月 我に七難八苦を与えたまえ |
山中家は尼子家に仕えていた武家で幸盛が他界したあとは兄の幸高が家督を継いでおり、鹿之助は尼子氏に住み込みで仕えて兵法や武芸を学び、すでに13歳で戦に従軍し、敵を討ち、武功を挙げていたそうです。
16歳でも尼子義久の伯耆尾高城攻めに従軍し、因伯(鳥取県南部)で名を馳せていた菊池音八という豪傑を一騎打ちで討ち取ったといいます。
ただ、初めに言っておきますが、鹿之助の生涯や出来事に関するエピソードは・・・(続きはコチラ)
可児才蔵(先鋒隊)
画像:落合芳幾・画「可児才蔵」(東京都立図書館)
本名、可児吉長。通称、才蔵。出生について謎が多く、1554年に美濃国可児郡(岐阜県南部)で生まれて幼少期を願興寺で過ごし、覚禅房胤栄(宝蔵院流の開祖)に槍術を学んだとされています。
生没 | 1554年生まれ 1613年死去 |
出身 | 美濃国可児郡(岐阜県) |
主君 | 斎藤義龍から柴田勝家、明智光秀から前田利家 |
織田信孝から森長可、豊臣秀次から佐々成政、最後は福島正則 | |
親族 | 父母不明 養子:山岡景宗子 |
特徴 | 笹の才蔵 最期は広島 自分の死ぬ日を予言した |
何度も主君を変え、各地を転々としていますが水野勝成のように自由気ままな風来坊というわけではありません。最後は福島正則の家臣として落ち着き、正則が広島藩主になったときも仕えています。
謎が多い武将なのに「戦国最強」と例えられることが多い才蔵ですが・・・(続きはコチラ)