画像:高知県立坂本龍馬記念館
※安政五年一月と記されていることから龍馬が24歳のときに受けた北辰一刀流の目録
また、目録には定吉の娘の「さな子(佐那)」の名も記されており、大河ドラマ・龍馬伝を観た方ならご存知でしょうが龍馬の婚約者だった女性(さな子を演じたのは女優の貫地谷しほり)。
現存する北辰一刀流の目録の中で「さな子」の名が記されているのは今回見つかった龍馬の目録だけであり、これまで疑問視されてきた「さな子と龍馬の関係性」を裏付ける貴重な史料にもなりました。
そんな名門道場で一流の剣術を学んだにも関わらず、近江屋で暗殺されたときには最期まで刀を抜くことなく斬り殺された龍馬。
刺客が部屋に入ってきてから暗殺されるまであっという間の出来事で、龍馬は床の間に置いていた刀を手に取り鞘のまま刺客の刀を受け止めましたが、防ぎきれず頭部の傷が致命傷となり数分後に他界。
そのとき、龍馬が手にしていた刀が刀鍛冶の名工・陸奥守吉行が手掛けた日本刀「吉行」でした。しかし、ここ最近まで「龍馬の刀は吉行ではない」という物議が飛び交っていたんです。
陸奥守吉行と坂本龍馬
参考:2016年5月11日の読売新聞
戦国武将や幕末の志士など、歴史上の人物が所有していた名刀が数多く現存していますが、坂本龍馬の愛刀として知られる日本刀が「吉行」です。
1931年に龍馬の子孫が東京国立博物館に吉行を寄贈しましたが、研究者の間で「この刀(龍馬の帯刀)は吉行ではない」という議論が長期的に交わされていました。
その理由として、寄贈された龍馬の刀には陸奥守吉行の特徴である「文様がない」ことや「刀身に反りがない」ことが否定的な主な根拠として有力視されていました。
ところが、2016年に龍馬の子孫が書き遺した「吉行に関する書類」が坂本龍馬記念館の資料の中から見つかり、それまで続いていた"吉行問題"に終止符が打たれたんです。
その書類には「大正二年十二月二十六日釧路市大火ニテ罹災」と記されており、北海道釧路市に住んでいた子孫が火事に遭った際、火災により吉行の刀身が変形して反りがなくなったとのこと。
そして、火災後に刀身を研ぎなおした(再刃した)という内容でした。つまり、刃を研ぎなおしたことで刀身の反りがなくなり、火事によって文様が焼失したという事実が判明したわけです。
再度、東京国立博物館が調査をもとに鑑定を行った結果、「寄贈された龍馬の刀は吉行である」と断定。そのニュースは読売新聞にも大々的に取り上げられ、龍馬に関する新たな史料となりました。
そもそも、龍馬が吉行を手に入れた経緯は、
1867年1月29日に兄の坂本権平に
「家宝の刀剣を譲ってほしい。死ぬ時も肌身離さず大切にする」
といった内容の手紙を龍馬が送り、
陸奥守吉行が土佐(高知)で名の知れた刀鍛冶だったことから、
権平は坂本家の家宝の一つとなっていた吉行を龍馬に贈りました。
その際、権平は山内容堂と会うために土佐を訪れていた西郷隆盛に吉行を預け、
西郷隆盛から中岡慎太郎を経由し、
1867年4月24日に龍馬のもとへ届けられました。
しかし、その8ヶ月後、近江屋で龍馬は暗殺されます。床の間に置いていた吉行を手に取り刀を抜く間もなく鞘のまま刺客の刀を受け止めましたが、防ぎきれず頭部の傷が致命傷となり数分後に他界。
龍馬の最期を見届けた名刀だけあって、幕末ファンとしてはロマンを感じてなりませんね。