戦国時代でスカウトしたい「島左近」
画像:島左近の肖像(京都文化博物館)
島左近は石田三成の腹心の部下として知られていますが、父母や生没など未だ不明な点も多く、一昔前までは存在そのものを疑われていたようですが、その後の研究で存在を示す史料が見つかり、実在していたことが認められています。
生没 | 推定1540年生まれ 推定1600年死去 |
出身 | 推定 大和国(奈良県) |
主君 | 筒井順慶から筒井定次、蒲生氏郷から豊臣秀長 |
最後は石田三成 | |
親族 | 息子:島信勝 娘:珠 |
特徴 | 猛将 知将 石田三成の右腕 鬼 |
左近は筒井順慶の家臣からスタートし、順慶の跡を継いだ筒井定次に嫌気がさして無所属の浪人となりますが、当時から左近の能力は高く評価されていたようで、各地の武将や大名から「うちの家臣になって」と誘いを受けていました。
しかし、すべての誘いを断り、浪人生活を送る左近。しばらくして左近のもとへ三成がやって来て、「私に力を貸してくれないか」とスカウトされますが、これもバッサリ断りました。
断っても、なかなか引き下がらない三成。ほかの者たちは素直に諦めたのに・・・と少々うんざり気味の左近に対して三成は、「私の石高4万石の半分を左近殿に差し上げる」と熱烈なラブコールを送るのです。
左近は「主君と同じ石高の家臣なんて聞いたことないぞ」と三成の人間性に興味がわき、仕えることを承諾しました。左近は2万石で心が動いたのではなく、三成の「覚悟」と「心意気」に感銘を受けたわけです。
その証拠に、後に三成が佐和山19万4000石を所領した際、三成は左近に石高を分け与えようとしましたが、これを左近は断っています。左近は金ではなく、気持ちで動く熱い男なんです。
語り継がれる関ケ原での勇姿
画像:関ケ原古戦場・島左近の陣地跡
三成にすぎたるものが二つある。それは佐和山城と島左近だ |
(佐和山城と島左近は、三成にはもったいない)
そう言われるほど周囲から高い評価を受けていた左近ですが、そんな風評(三成に対する評価の低さ)に惑わされることなく、いかなる場合も三成の重臣として最期まで忠義を貫き通しました。
そして、左近にとって関ヶ原の戦いは、人生の総仕上げと言ってもいいでしょう。
左近は猛将でしたが、頭もキレる男でした。家康を敵に回せば死が待ち受けていることも察しがついていたでしょう。しかも、実質的に自分の主君が「打倒!家康」を掲げているような状況で、様々な葛藤があったと思います。
それでも、左近は命を懸けて三成を支える覚悟を決めたのでした。そして、ついに始まった関ヶ原の戦い。
関ケ原(岐阜県不破郡)の戦場で左近は三成が率いる本隊の前に布陣し、先鋒隊として東軍の黒田長政、田中吉政の部隊に突撃。鬼という異名がつくだけあり、その勇姿は凄まじい勢いぶりだったといいます。
「ひるむな!いけ、いけー」と声を荒げながら指揮を執り、槍を振り回し、長政を目掛け敵兵を蹴散らす左近の姿は鬼のような形相だったといい、その時の怒号を聞いた黒田の家臣たちは合戦後も左近の幻聴が聞こえていたとか。
関ケ原の合戦から数年後、ふと当時のことを思い返した黒田の家臣たちは、「左近の声だけは今でも耳に残っている。あの鬼のような形相は忘れたくても忘れられない」と口々に言い合ったそうです。
出生と同じく左近の最期には諸説あり、関ケ原で銃弾を受け対馬(長崎)または西国へ落ち延びたという説や、佐和山城に退却して自害した、さらには合戦後も密かに京都で暮らし1632年まで生きたなど、やはり謎なんですね。