信長公記・11巻その1 「正月の茶会と内裏の節会」
画像:茶碗と茶筅(©D-matchastore)
まえがき
1578年2月7日(天正6年1月1日)、安土城には尾張、畿内、美濃、伊勢、近江、若狭、越前、ほかにも隣国から家臣や旗本の主が集まり、信長に年賀の挨拶を述べた。
尾張・・・愛知県西部
畿内・・・山城国・摂津国・河内国・大和国・和泉国
美濃・・・岐阜県南部
伊勢・・・三重県の北中部・愛知県弥富市の一部・愛知県愛西市の一部・岐阜県海津市の一部
近江・・・滋賀県
若狭・・・福井県南部から敦賀市を除いた地域
越前・・・福井県嶺北地方と敦賀市・岐阜県北西部
正月の茶会
1578年2月7日(天正6年1月1日)、信長は、織田信忠、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、林秀貞、細川藤孝、武井夕庵、荒木村重、市橋長利、長谷川宗仁、長谷川与次に茶を振る舞った。
茶室は右勝手※の六畳・四尺(120センチメートル)縁の座敷で、床の間には水辺の絵を飾り、座敷の東に松島茶壷、西側には三日月茶壷と万歳大海壺、珠光茶碗と四方盆(正方形のお盆)、帰花の水指、囲炉裏に花入(花を挿す筒)をくさりで吊るし、姥口茶釜を置いた。
※(点前座に座る亭主(茶を点てる人)の右側に客人が座る席構えのこと)
茶頭(茶会の仕切り)は松井友閑が務め、茶会が終わったあとは新たに織田家へ出仕(仕官)した者に信長が三献の盃(三三九度)を行い、御酌(酒を注ぐ)は矢部家定、大塚又一、大津伝十郎、青山虎が務めた。
画像:人物叢書・松井友閑(日本歴史学会)
信長は出仕した者らに天主(天守)を見物させた。天主の内観は狩野永徳が描いた障壁画(濃絵※)が美しく、名物の品々が並べられ、言葉では表せない威光を放っていた。
※濃絵とは、金碧濃彩画(金箔を雲や地面に張り敷き、立派な原色を厚く塗ったもの)
さらに信長は、これらの者に雑煮と唐物(中国)の菓子を天主で振る舞った。そして、2月10日には信長が1578年2月4日(天正5年12月28日)に信忠へ贈った名物の茶道具の披露会が万見重元(仙千代)の屋敷で催された。
参席したのは松井友閑、滝川一益、羽柴秀吉武井夕庵、丹羽長秀、林秀貞、長谷川宗仁、市橋長利、長谷川与次で、このとき市橋長利は信長から芙蓉の絵を頂戴し、長利は感無量であった。
<補足>
信長の強い希望により、安土城の障壁画の7割以上は狩野永徳が描いた。
一階の西にある4畳間(来客や家臣と対面する座敷)と12畳の間、二階の南にある4畳間や12畳の間には唐(中国)の儒者や西王母、呂洞賓などの濃絵。 三階は竹や松に龍虎の濃絵、鳳凰などが描かれていた。五階には釈迦や餓鬼といった仏教の濃絵、六階は古代中国の聖人である三皇五帝や商山四皓が描かれていた。 なお、復元された天主の壁画と信長公記に記されている壁画は異なっている。復元された壁画は、五階には釈迦説法図と双龍争珠図、波濤の飛龍図。 六階は老子出関図と軒轅問道図、 尚父遇文王図と尚父遇文王図、周公握髪図と杏壇図、孔子観欹器図である。 |
節会
画像:お節料理
当時、内裏(京都御所。皇居)の節会(せちえ)※は長らく行われておらず、もはや京都には節会の儀を取り行える者がいない有様となっていた。
※(節会とは、節日(季節の節目)に天皇が臣下に酒や料理を賜る儀式で、内裏で節日に行われた宴会。祝事を行い、祝いの御前が用意され、このときの御前に由来して「お節料理」と呼ばれるようになった)
しかし、信長が月卿雲客(大臣・大中小納言・参議または三位以上の公家)に知行(所領の支配権を与える)を加え、内裏の修復や築地の造営など朝廷の威光が蘇ってからは再び節会も取り行われるようになったのである。
節会には臣下(公家や大名)が集まって根引き松(根が付いたままの飾り松)を飾り、1月1日の辰の刻(午前8時の前後2時間)に神楽歌が奏でられ、多様な儀式を行って格式ある祭事が行われた。
このように長らく途絶えていた内裏の節会が蘇り、信長の時代に生まれた京都の人々は「誠にめでたいこと」と喜びに満ちていた。そして、1578年2月16日(天正6年1月10日)に信長は、鷹狩で捕まえた鶴を正親町天皇に献上した。
また、信長は、この日に近衛前久(近衛家17代目の当主。官位は従一位の公家)へも鶴を進上し、翌日に前久が安土城に御礼に訪れると、松井友閑の屋敷に前久を宿泊させ、対面した。18日の明け方に前久は安土城を出た。
信長は清洲(愛知県清須市)で鷹狩を行うため、19日に安土城を出発し、柏原(滋賀県米原市)に入った。翌日、美濃まで進んで2日ほど滞在したのち、22日に清洲へ入った。
さらに、18日には吉良(愛知県西尾市)でも鷹狩を行い、多くの雁(水鳥)や鶴など捕まえた。28日に清洲へ戻って翌日には美濃へ入り、3月3日に安土城へ帰還した。
福田与一の屋敷の火事
(03の画像を添付)
3月7日、織田の家臣で弓衆の福田与一の屋敷が火事になった。信長が調査を進めると、与一は妻と子を美濃に置いたまま安土(滋賀県近江八幡市)に単身赴任していることが分かった。
つまり、軍の戦力であり信長の護衛でもある者が家族を安土に呼び寄せていないということは腰を据えていないという意味でもあり、また、妻子が居れば留守の出火は防げたはずで、これを知った信長は激怒して与一に処罰を下した。
このような者が他にもいないか調査するために信長は、配下の者が安土で家族と暮らしているか菅屋長頼に調べさせ、台帳に記録させた。すると、与一の他にも60人の弓衆と馬廻60人が妻子と離れて暮らしていることが判明した。
信長は息子の信忠を尾張に向かわせ、その者たちの家族が住む家を焼き払わせた。結果、家を焼き払われた120名の家族たちは尾張を離れ、安土に移り住むしかなくなった。
与一と120名には罰として安土城の南にある入江(江の内)に新しい道を造らせ、全員を許した。
磯野員昌の逃亡
3月11日、磯野員昌(元は浅井長政の家臣だが姉川の戦いで織田に降伏して信長の家臣になった)が指示に背き、処罰を恐れ、素早く逃げて行方不明になった。
信長は磯野の所領である高島(滋賀県高島市)を織田信澄(織田信勝の息子で員昌の養子になっていた)に与えた。また、17日には吉野山(奈良県吉野郡吉野町)で蟄居(謹慎)していた磯貝新右衛門を吉野の住人が殺害し、新右衛門の首を信長に持ってきた。
この者に信長は黄金を褒美として与えた。信長は恨みを抱いた相手には必ず報いを受けさせた。
一方、3月31日に羽柴秀吉は中国攻め(毛利攻め)に備えて播磨(兵庫県南西部)へ攻め入り、別所長治の配下である糟屋内膳の加古川城(兵庫県加古川市加古川町)に陣を構え、書写山(兵庫県姫路市)に砦を築いて布陣した。
しかし、突如として別所長治が毛利輝元に寝返ってしまい、三木城(兵庫県三木市)に立て籠もったのである。