信長公記・11巻その2 「安土城の相撲大会」
画像:織田信長相撲観覧図(両国国技館)
安土城の相撲大会
1578年4月6日(天正6年2月29日)、近江(滋賀県)に住む相撲取り300名を安土へ呼び寄せ、安土城で相撲大会を催した。信長は腕っぷしの強い23名を選抜して競い合わせ、褒美として彼らには扇を与えた。
選抜された力士は次のとおりである。
日野長光、地蔵坊、東馬二郎、大塚新八、正権、木村いこ助、円浄寺、山田与兵衛、太田平左衛門、あら鹿、たいとう、平蔵、づこう、力円、宗永、周永、青地孫二郎、村田吉五、下川弥九郎、麻生三五、草山、助五郎、妙仁
なかでも信長が感心したのは日野長光で、信長は長光を呼んで骨に金銀を施した扇(平骨濃塗りの扇)を与えた。なお、このときに行司を務めたのは木瀬蔵春庵と木瀬太郎太夫であり、これらにも衣服が与えられた。
4月12日、信長は鷹狩を行うために奥の島山(滋賀県近江八幡市)に登り、長命寺に泊まった。3日ほど滞在して鷹狩を楽しみ、14日に安土城へ帰還した。
29日、信長は京都へ入り、二条殿(二条晴良の屋敷跡に造った信長の屋敷。京都市中京区両替町通御池上る東側)に滞在した。そして、5月10日に信長は大阪方面に軍を向かわせた。
総大将の信忠は尾張(愛知県西部)・美濃(岐阜県南部)・伊勢(三重県の北中部、愛知県弥富市の一部、愛知県愛西市の一部、岐阜県海津市の一部)の勢力を従えて進軍した。
さらに、織田信雄、織田信孝、織田信包、織田信澄、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀、蜂屋頼隆らの部隊や、近江(滋賀県)、若狭(福井県南部から敦賀市を除いた地域)、五畿(山城国・摂津国・河内国・大和国・和泉国)の勢力も加わった。
織田軍は11日と12日の2日にわたって大坂へ攻め入り、周辺の麦苗を一網打尽に薙ぎ倒した。
13日に信長は越中(富山県)の神保長住(越中の守護代)を二条殿に招き、佐々長穐と武井夕庵に対面が遅れた(または連絡が遅くなった)理由※を述べさせた。
※(信長は前月に病を患って療養しており、神保との対面が先延ばしになっていたと思われる)
信長は長住に詫びとして織物100反と金100、阿波(しじら)の布を贈った。このとき、信長は長尾輝虎(上杉謙信)が他界したことを知り、佐々長穐を長住の護衛につけ、姉小路頼綱(飛騨国主)に命じて長住を飛騨(岐阜県北部)から越中へ入国させた。
5月16日、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀が丹波(京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)に向かい、荒木氏綱の居城である園部城(京都府南丹市園部町)を包囲した。
明智・滝川・庭の部隊は城の用水路を塞いで攻め入り、水路を絶たれて干上がった荒木は降伏した。園部城には明智光秀の軍勢が置かれ、ほかの者は6月1日に京都へ帰還した。
高倉山の戦い
画像:毛利輝元の肖像(毛利博物館)
1578年5月の下旬または6月の初旬(天正6年4月の下旬または4月の中旬)、安芸(広島県西部)から毛利輝元、吉川元春、小早川隆景、宇喜多忠家ら中国地方の軍勢が攻め寄せてきたという報告が信長に届いた。
中国勢は備前(岡山県東南部、香川県小豆郡・直島諸島、兵庫県赤穂市福浦)・美作(岡山県東北部)・播磨(兵庫県南西部)の国堺に位置する山中幸盛の居城・上月城(兵庫県佐用郡佐用町)を包囲した。
敵の包囲に対し、羽柴秀吉と荒木村重が部隊を率いて出撃。敵軍と近距離にある高倉山(兵庫県佐用郡)に陣を構えて交戦の姿勢をとった。しかし、上月城は高倉山を下ったあとに谷を越え、さらに佐用川(熊見川)を渡った先であり、救援に向かうには間に合わなかった。
一方、信長は5月28日に京都の二条殿を出て安土城へ帰還し、6月2日に再び京都へ入った。そして、「6月6日(天正6年5月1日)に播磨へ進軍し、中国勢と一戦を交えて勝利する」と自身の出陣を宣言した。
ところが、佐久間信盛、滝川一益、蜂屋頼隆、丹羽長秀、明智光秀ら家臣が猛反対した。
彼らは、「中国勢は難所である上月城を占拠し、さらに砦を築いて堅く守備しています。まずは私たちが出撃して様子を見てからにしてください」と申し述べたのだ。
6月4日、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益らが播磨に進軍し、6日には織田信忠、織田信包、織田信雄、織田信孝、佐久間信盛、細川藤孝らが尾張・美濃・伊勢の勢力を率いて進軍した。
途中、信忠らは郡山(大阪府茨木市)で野営して翌日に播磨へ入り、11日に明石(兵庫県明石市)の近くにある大窪(加古川市)に陣を構え、先鋒隊は敵軍の神吉城(加古川市)、志方城(志方町)、高砂城(高砂市)、これら加古川の周辺に部隊を展開した。
畿内の大洪水
画像:明治7年~8年の四条大橋(京都府立図書館)
6月18日に信長も播磨に向けて進軍する予定だったが、畿内(山城国・摂津国・河内国・大和国・和泉国)では16日の巳の刻あたり(午前10時くらい)から強い雨が降り注ぎ、18日の午刻(昼)まで勢い変わらず降り続いた。
その結果、各所で洪水が発生し、桂川・白川・賀茂川(いずれも京都市を流れる川)が氾濫して京都の道が水没してしまった。17日と18日には、この3つの川が合流して舟橋(上京区北舟橋)を壊滅させ、多くの死者を出した。
また、村井貞勝が新たに建築した四条大橋(四条通の橋)も押し流されてしまった。多大な被害を被った大洪水だったが、これまで信長は一度決めたことは苦難に阻まれようとも決行してきたため、今回も18日に出発すると家臣らは思っていた。
そうした前提のもと、槙島(京都府宇治市)・淀(京都市伏見区)・鳥羽(三重県鳥羽市)の者らは数百隻の舟を用意し、油小路(京都市下京区)まで信長を迎えに行った。
嵐も恐れぬ部下たちの行いに信長は感銘を受けたが、さすがの大洪水では無理難題であり、出発を延期するしかなかった。29日、竹中半兵衛が戦況報告に信長のもとを訪れた。
それは、八幡山(兵庫県神崎郡)の城主が寝返って味方になったという報告であり、吉報を喜んだ信長は褒美として羽柴秀吉に金100枚、半兵衛に銀100両を与えた。
7月2日、信長は洪水による安土の被害状況を知るために京都を出発した。信長は、わずかな小姓衆だけを引き連れて松本(滋賀県大津市)から船で湖を渡って矢橋(滋賀県草津市)に入った。
7月14日には安土を出発し、矢橋から松本まで船で移動して再び京都に入った。18日は祇園祭(平安時代に疫病・災厄の除去を祈った祇園御霊会を始まりとする八坂神社の例祭)であった。
信長も見物したが、護衛の馬廻や小姓らには弓・槍・太刀などの装備を禁止し、軽装でお供するよう指示していた。見物を終えた信長は、小姓10人ばかりを引き連れて鷹狩に出かけた。なお、この日は小雨が降っていた。
さらに、この日は近衛前久に普賢寺(京都府京田辺市普賢寺)1500石の知行(領土の支配権を与えること)を行った。(1500石の石高がある普賢寺という地域を近衛前久に与えたということ)
20日、播磨から羽柴秀吉が京都に参上し、播磨での戦術について信長に指示を求めた。
すると信長は、「効果的な戦略を持たずに布陣しても意味がない。陣払い(今いる陣地から移動する)し、神吉城と志方城(いずれも兵庫県加古川市)に攻め入り、別所長治が立て籠もる三木城(兵庫県三木市)を包囲しろ」と指示を下した。
これにより神吉城への出撃が決定し、戦況の監視は大津伝十郎が任命され、大塚又一郎、水野九蔵、長谷川竹秀一、菅屋長頼、矢部家定、祝弥三郎、万見仙千代らが交代で監視を補佐した。
信長は25日に京都を出発し、帰還するために安土城へ向かった。