画像:有岡城跡
12月12日、大田村砦の建築に関わった明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、氏家直通、稲葉一鉄、蜂屋頼隆、安藤守就、羽柴秀吉、細川藤孝、武藤舜秀ら先鋒隊を有岡城に進軍させた。
織田の先鋒隊は荒木軍の先鋒隊と激突し、武藤の騎馬隊が敵兵の首4つを挙げた。武藤は首を安満にいる信長へ首を送り、有岡城の周辺に火を放って刀根山砦(大阪府豊中市刀根山)を築いた。
ほかにも摂津の各所には織田の砦が築かれており、見野村砦(兵庫県川西市)には蜂屋頼隆、丹羽長秀、蒲生氏郷、若狭衆(福井県南部から敦賀市を除いた地域の勢力)が入っていた。
また、小野原砦(大阪府箕面市)では、織田信忠、織田信孝、織田信雄が陣を構えていた。13日、信長は安満から郡山(大阪府茨木市郡山)に陣を移した。
翌日、高山右近が郡山に参上し、あらためて服従の意思を伝えに来た。信長は大きに喜び、着ていた小袖を右近に与え、埴原新右衛門が信長に献上した名馬も与えた。
さらに、摂津の芥川郡(大阪府高槻市にあった村)も与え、「これからも織田家のために尽力せよ」と右近に伝えた。
12月16日、信長は惣持寺(大阪府茨木市総持寺)に入り、織田信澄に中川清秀(村重の家臣)の居城である茨木城(茨木市片桐)の小口(茨木市西太田町の安威川太田橋の付近だと思われる)を占拠するように命じた。
なお、茨城城には、中川清秀、石田伊予、渡辺勘大夫が立て籠もっていた。
そして、前田利家、不破光治、佐々成政、日根野備中、日根野弥次右衛門、金森長近、原長頼に命じて惣持寺の敷地に砦を築かせ、太田村砦から惣持寺砦へ陣を移させた。
12月21日、信長は再び惣持寺を訪れ、翌日は家老衆を引き連れて刀根山砦を訪れた。22日は亥の刻(午後9時~11時頃)に雪が降りだし、夜間を通して時雨(降ったりやんだりする雨)が降っていた。
そんな矢先、茨城城で動きがあった。茨城城は敵の城だったが、22日の夜中に城主の中川清秀は石田伊予と渡辺勘大夫を城から追い出して織田軍を城内に引き入れ、信長に服従を申し入れてきた。
これは、福富秀勝、野々村三十郎、古田佐介(古田織部)、下石彦右衛門らの調略によって中川清秀が荒木村重から信長へ寝返り、その証として茨城城を織田軍に明け渡したのである。
画像:信長の本陣・小屋野があったとされる伊丹市昆陽(グーグルマップ)
茨城城の守備は福富秀勝、野々村三十郎、古田佐介(古田織部)、下石彦右衛門らに任せられ、摂津の半分以上を織田軍が制圧したことになり、いよいよ村重の居城である有岡城の制圧が間近に迫っていた。
24日、信長は中川清秀に褒美として金30枚を与え、仲介を務めた清秀の家臣3名にも金6枚と衣服を与えた。また、高山右近にも金30枚を与え、右近の家老2名にも金4枚と衣服を与えた。
25日、信長は郡山から古池田(大阪府池田市)に陣を移し、この日は朝から冷たい風が吹く寒気(かんき)だったが、夜に中川清秀が古池田の本陣を訪れ、信長は大いに歓迎した。
さらに、織田の武将から次の品々が清秀に贈られた。
信長から太刀拵(金具をつけた拵え)の太刀と完全装備の馬
信忠から長光の名刀と馬
織田信雄から名馬
織田信孝から馬
織田信澄から太刀
12月26日、信長は小屋野(伊丹市昆陽。有岡城から西に直線の場所)で本陣を構え、有岡城の周辺を囲むような形で織田の各部隊に陣を構えさせた。
このとき、ほとんどの近隣の住人たちが甲山(かぶとやま。西宮市西北部に位置する山)の山頂に屋敷を建てて非難していた。信長は、この住人たちが断りも入れずに大移動したので不審に思ったのか、万見仙千代や堀秀政を出動させ、山頂の住人たちを斬り捨てて兵糧を奪い取ってこさせた。
そして信長は、丹羽長秀と滝川一益を神戸の方面に向かわせ、茨住吉、雀ヶ松原、三陰の宿(いずれも東灘区)、生田森(中央区)、芦屋里(芦屋市)、西宮(西宮市)、滝山(川西市)に陣を構えさせた。
長秀と一益の部隊は荒木元清が立て籠もる花隈(神戸市中央区)に兵を配置したあと、山道を移動しながら神戸の住人や僧侶など皆殺しにする勢いで斬り殺していった。
さらに、仏像や経巻、伽藍や堂塔など焼き払い、一ノ谷(神戸市須磨区)にも火を放って回った。
この状況において、大和田城(大阪市西淀川)の城主である安部良成(安部二右衛門。村重の家臣)が芝山源内(村重の家臣)と共同で信長に服従を申し入れてきた。
大和田城は尼崎(兵庫県尼崎市)に隣接する場所に位置し、大阪にも伊丹にも抜けられる交通の要所だった。