信長公記・3巻その1 「金ヶ崎の戦い」
画像:織田信長相撲観覧の絵(両国国技館)
常楽寺の相撲見物
1570年、この年に年号が永禄から元亀へと変わる。3月31日、信長は岐阜を出発して京都へ向かった。途中、赤坂に泊まり、翌日に常楽寺(滋賀県安土町)まで進んだ。
しばらく常楽寺に滞在し、4月8日、近江の領内から力士を集めて常楽寺で相撲を見物した。集まったのは百済寺の鹿と小鹿、深尾又次郎や鯰江又一郎、青地与右衛門といった力士たちで、ほかにも力自慢の者たちが詰めかけた。
木瀬蔵春庵が行事として進行し、最後まで勝ち残ったのは鯰江又一郎と青地与右衛門だった。信長は二人を御前に招いて「のし付きの刀」を与え、さらに両人を相撲奉行として家臣に迎えた。
また、見事な戦いっぷりを見せた深尾又次郎には信長が衣類を贈った。相撲見物を終えた信長は4月10日に入京し、半井驢庵の屋敷に宿泊した。
すでに京都には三河(愛知県の東部)の徳川家康をはじめ諸国の武将や大名が到着しており、信長に挨拶をする者たちで二条城の門前は市場のような景色となっていた。
信長公記には入京の日付が4月10日(元亀元年3月5日)と記されているが、近年の調べではではなく4月5日(元亀元年2月30日)が正しいとみられている。よって、相撲見物も4月8日ではない可能性が高い。
堺にて名物の収集
この頃の堺(大阪の南)には天王寺屋が所有する津田宗及の菓子の絵、薬師院は小松島の茶壷、油屋常祐の柑子の花入れ、松永久秀の鐘の絵など、天下の名物と称される茶器が集まっていた。
これらを信長は手に入れたく、所有者たちのもとへ松井友閑と丹羽長秀を向かわせて献上を命じた。茶器を所有する者たちは信長の指示に背くわけにもいかず、茶器を差し出した。代償として金銀が与えられた。
京都にて能の見学
5月18日(近年の調べでは5月5日が正しいとみられている)、足利義昭の新座所(二条城)完成の祝いとして観世大夫と金春大夫が立ち合いのもと、能の見物が催された。
能の演目として1番が玉の井、2番は三輪、3番が張良、4番に芦刈、5番が松風、6番は紅葉狩、7番に融という順番で構成され、地謡(役者以外の演者)は生駒外記、野尻清介、伊藤宗十郎が笛を務めた。
飛騨(岐阜)の姉小路頼綱、伊勢(三重)の北畠具教、三河の徳川家康、ほかにも畠山高政や同昭高、一色義道や三好義継、松永久秀といった諸大名などが参列した。
見物の席で足利義昭は信長に官位の昇進を与えようとしたが信長は堅く断り、酒を拝借するだけで終わった。
(ちなみに、前年の末頃から信長と義昭は不仲になっており、年が明けた正月に信長は義昭に対して将軍としての権限を制限する旨の約束・書状を交わしていた)
京都で用事を済ませた信長は5月24日、軍を率いて京都を出発して越前(福井)へ向かい、坂本を越えて和邇(滋賀県志賀町)に泊まり、25日には高島の田中城に泊まった。
26日、若狭(福井県小浜市)に入り、熊川(上中町熊川)の松宮玄蕃領を経由して27日に佐柿(美浜町)の粟屋勝久の屋敷に到着した。(※琵琶湖の西岸から若狭を経由して越前に入ったとされる)
金ヶ崎の戦い
画像:金ヶ崎古戦場
5月29日、信長は越前に入った。軍を敦賀(敦賀市)まで進めた信長は馬に乗って付近の地理を見て回り、手筒山城を標的に定め、すぐさま旗下の武将らに攻撃するよう指示した。
手筒山は金ヶ崎の南東にそびえ立つ高い山だったが、織田の武将らは恐れることなく坂を駆け上って城へ攻め寄せ、敵兵1300余りの首を挙げて一気に手筒山城を落とした。
手筒山の近くにある金ヶ崎城には朝倉景恒が立て籠もっており、手筒山城を落とした翌日(30日)、信長は金ヶ崎城にも攻め寄せ、怒涛の如く猛攻する織田軍を前に降伏した。
引き続き疋田城(敦賀市疋田)も落とし、信長は滝川彦右衛門と山田左衛門尉に城の破却(破壊)を指示し、塀は倒され櫓(やぐら)が下ろされた。
さらに進軍し、木目峠を越えて翌日には一斉に越前へ雪崩れ込もうとしていたが、最悪の悲報が信長のもとに届いた。同盟国の浅井長政が信長に敵対し、浅井家に味方したという報告であった。
お市(信長の妹)を浅井家に嫁がせており、長政と信長は身内の仲だったため、この報告を信長は信じなかった。しかし、各所から情報が集まると、長政の裏切りが事実であることに信長も承知した。
6月1日、越前の平定を断念した信長は撤退を決意。前方には朝倉軍、後方からは浅井軍という状況のなか、織田軍は退却戦を強いられた。
木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が率いる小隊を金ヶ崎城に残し、信長は止まることなく馬にまたがり駆け抜けて6月3日は近江に出て、近江の豪族・朽木元綱の守備で朽木を越え(滋賀県朽木村から京都の北に抜ける道)、撤退に成功した。
画像:京へ戻る途中に信長が身を隠したと伝わる「朽木の三ツ石」
越前から撤退した信長は、織田家に抵抗していた若狭(福井県小浜市)の石山城の城主・武藤友益に人質を差し出すように要求。このとき、交渉役として石山城に出向いたのは明智光秀と丹羽長秀であった。
人質として武藤友益の母が信長に差し出され、直ちに石山城は破却された。明智と丹羽は母親を連れて6月9日に針畑峠を越え入京し、信長に報告した。
この頃、稲葉一鉄と、その息子、斎藤利三は近江の守山に滞在し、近江路(滋賀県から福井県越前市に通じる街道)の見張りを信長から任せられていた。
そんな矢先、一揆が起こり綣(へそ)村(滋賀県栗東市)が燃やされ、守山も焼かれようとしていた。しかし、稲葉が敵を追い崩して見事に一揆を鎮静した。
信長は旗本の諸大名に人質の提出を要求し、また、足利義昭に日時を問わず非常時には上洛することを誓ったあと、6月12日に京都を出発して岐阜城へと戻った。
帰還する途中、志賀と宇佐山(どちらも滋賀県大津市)の城に森可成を残し、15日(近年の調べでは16日とみられる)には永原に到着して佐久間信盛を残し、長光寺(近江八幡市)には柴田勝家を残した。
安土にも中川八郎右衛門を配置させ、近江は厳戒態勢が敷かれた。